コリント人への手紙第二13章

これまでパウロは、自分が大使徒とは違うことを明確にしてきた。大使徒は、経歴、弁舌、霊的経験どれをとっても申し分のない人たちだった。パウロもそうした事柄について自慢しようと思うならばできないわけではない、と愚かしくも誇ってみせている(11,12章)。しかし、そのように語りながらも、自分は、自分の弱さ、自分が無であることをこそ誇りたいと語る。というのも、キリストがそうであったからだ。4節、キリストは弱さのゆえに十字架につけられたが、神の力によって生きている。私たちもそうだ。私たちが今生きているのは、神の力によるのである。私たちを通して何事かがなされるとしたら、それは神の力であって、私たちの力ではない。実に私たちの弱さにこそ、神の力が働くのであれば、いよいよ、私たちは弱さを誇ろうということである。

そこで、パウロは、コリントの教会を訪れようとしている計画について触れている。そして、もはや、自分の力を誇る大使徒としてではなく、キリストの前に無力で、弱い、ただキリストによって立てられている使徒としてである。となれば、罪を犯している人々に対しては、まさに弱さの中にありながらもキリストの代理人として立つのだから、容赦なし、ということになる。実に大切な部分である。パウロが容赦なしと言っているのではない。パウロの中にいるキリストが容赦なしと言っているのである。パウロが主の教会を建てあげようと熱心なのではない、弱いパウロの中にいるキリストが主の教会を完成させようと熱心なのである。牧師はあくまでもキリストの宝を入れた土の器に過ぎない。

同じように、信徒もキリストとの生きた関係にあるかどうかが問題である。だからパウロは言う。5節。「信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい」イエスは、毒麦とよい麦とのたとえ話をした。また終末には羊とやぎの群れが区別されることを語っている。クリスチャンも色々である。神様としっかり向かい合い、キリストの弟子として、関係をしっかり結びながら歩んでいる人と、そうではない人がいる。本当にキリストのいのちにつながって生きている人と、キリスト者のふりをして生きている人とは別者である。だから、キリストのいのちに与っておらずクリスチャンとして体裁をつくろっているだけの、信仰の不適格者は別であるとパウロは言う。つまり、そういう人は、パウロが手紙に書いてきたことも、パウロが容赦しないと語った背後にキリストがあることも理解できないだろう。通じない話をしてもしょうがない相手であるが、コリントの教会はそうではないはずだ、ということだ。

そこで11節。パウロは愛情をこめて、兄弟たち、と忠実なキリスト者に呼びかけて語る。喜びなさい。なぜか?私たちは、天地万物をお造りになり、この世界を支配しておられる神を信じる者だからである。パウロは、この神が味方であるならば誰が敵対できようかと言う。ここに私たちが、どんな時にでも、喜ぶ理由がある。前向きに物事に向かっていく理由がある。そういう意味で、あなたは希望のない者のように生きてはならない。豊かに希望をつないでくれるお方と共にあるのだから、喜びなさい。何事にも喜びを持ってあたっていきなさい、という。

第二に、完全になりなさいという。信仰を完成させるということだ。食べる者から学ぶ者、そして奉仕者となっていく。やはり、いつまでも食べていることは異常だ。いつまでも学んでいるのも健全ではない。奉仕者となろう。

第三に慰めを受けなさい、という。信仰者として成長するためには、やはり神さまにこそ支えられることだ。神さまの慰めを受けながら、強くされていくのが本当である。信仰の成熟の証拠は、その人が何に支えられているかでわかる。成熟した人は、直接聖書から慰められる、神さまに慰められる人である。人ではない。

第四に思いを一つにしなさい。私たちの中には協調性を学ばなくてはならない人もいる。霊的に成熟した人は、物事を建設的に話せる人である。反対するにしても、物事を建設的に進められるように関わっていく。ただ反対意見だけを言うなら子どもでもできる。しかし大人は、物事をさらによいものにするために反対意見を言う人である。

そして最後に平和を保ちなさい。トラブルを持ち込まないことだ。教会は、人間の集まりだからトラブルはつきものだ。しかし、トラブルが起こったら、それをますますひっかき回してしまうのではなくて、回復させる方向へと動いていくのである。このように努めていく教会に、愛と平和の神はとともにいてくださるという。神の御業を確かに見る教会とならせていただこう。

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