ヘブル人への手紙6章

ヘブルの著者は、このメルキゼデクの伝統に立つ、極めて重要なキリスト論を展開する前に、信仰の次の段階に進もう、と呼びかける(6:1-12)。読者は、あまりにも長い間信仰の未熟さの中にあった者たちのようで、当然他の人を教える状況になっているはずにもかかわらず、相変わらずイロハから手ほどきを必要としていたのである。

ヘブルの著者は、信仰は、どこかでそれを深めていく思いと心がけを必要とするのだ、と語りかける。もはや初歩の教えをやり直さないようにしよう、と。そこで初歩の教えのリストは、①死んだ行いからの回心、②神に対する信仰、③きよめの洗いについての教え(バプテスマのことではない)、④手を置く儀式、あるいは任職の儀式、⑤使者の復活についての教え、⑥神の裁きの教えと六つあるが、これらは、旧約聖書に教えられていることであり、キリスト教的というよりは、ユダヤ教的なものばかりである。つまりユダヤ教的な信仰と実践が基盤となって、キリスト教的なものがあるのだ、と言っているかのようだ。「死んだ行い」は、恐らく読者が入信の過程で訓練を受けた信仰問答書「十二使徒の訓練」に出て来る「殺人、姦淫、欲望、不品行、盗み、偶像礼拝、魔術、魔法、強奪、偽証、偽善、二心、虚偽、尊大…」等の類であろう。こうした悪徳からの悔い改めは、キリスト教信仰においても基本とされた。また、「神を認め、神を信じる」、これは信仰者であれば当然と思われるものだが、実際、ここでぐらついているキリスト者は少なくない。旧約においても、不信仰の故にエジプトを脱出したイスラエルは約束の地カナンになかなか入れ40年もの間荒野を彷徨ったではないか。「きよめの洗い」についての教えは、バプエスマと異なり、どうやらユダヤ教から受け継いだ、当時の一部キリスト者の習慣であったと考えられている。また「手を置く儀式」、いわゆる按手は、初代教会で実行され、聖霊を受けることと関係した儀式であり旧約時代から継承されたものと考えられる。「死者の復活」は、主イエスの復活のために特別に重要なものとなったが、パリサイ人も死者の復活を信じていた。そして彼らはサドカイ人とこの件で、パウロの誘導によって激しい議論を展開している。それは議論すべきことではなく初歩の教えなのである。最後の「永遠のさばき」は、復活を信じるユダヤ人の信仰にとっては、同じように基本であり、旧約聖書以来の信仰である(創世記18:25)。これらは皆読者にとって新しいことではない。既に旧約聖書を通して教えられてきたことであり、キリスト教信仰は、それを否定するものではなく、その土台の上に成り立つ、ことを語るのである。当時のユダヤ人キリスト者が直面していた信仰的な課題は、今日の日本人キリスト者が抱えるものとはいささか性質が違う。というのも、日本人の回心は、無神論、無宗教からの回心であるが、ユダヤ人の場合はそうではない。実際パウロの回心は、ユダヤ教信仰の土台の上に、キリストをメシヤ、救い主として認めるところにあった。彼は未信者ではなかったのである。ヘブル人への手紙が、旧約的なものを再解釈しており、特にレビ記律法を後で説明していくことからして、この初歩の教えの考え方は、単純に私たちが考える信仰的な初歩ではなく、旧約聖書信仰の基礎、と理解すべきものである。そこで著者は、①光を受け、②天からの賜物の味を知り、③聖霊に与り、④神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わうことは、それまでの形式的、慣習的信仰にいのちと実質を与えられる経験に他ならないのであり、そこから堕落する、というのは、異邦人が信仰を放棄する以上に難しい問題を抱えてしまうことを指摘している。

ある意味で、7、8節は、イエスの種まきのたとえを思い起こさせるところである。イエスの話を聞きながら、人々は、イエスについてきたが、それは、ただ単にイエスの教えを喜びはしても、悟らず、実を結ばない人々であった。

しかしヘブルの著者は、読者に期待を寄せている。彼らは実を結ばない類の人々ではない。9節、「だが愛する人たち」と呼びかけ、彼らの信仰の成長を確信している。そのためにまず勧められることは、信仰の確信を保ち続け、怠けることなく、忍耐をもって人々に仕える愛の歩みを継続することである(11節)。そして先輩の信仰に見倣うことであるという(12節)。彼らは、旧約的伝統の中で、新約的信仰を受け継いだのだから、その先輩を見倣うことが大事なのだ、ということなのだろう。そこで著者は、13節旧約聖書からアブラハムの例をあげている(15節)。忍耐の末に、ただ信じることによって約束のものを得たアブラハムに倣って、私たちも信仰において実を結び、確実に主の祝福に与る者となることが勧められている。信仰生活の華やいだ部分ばかりに目を留めて、自分もそうなりたいと願う人はいるが、信仰はもっと地味なものである。地味なことがしっかりできることが大切なのだ。

ヘブルの著者は、これが神に約束されたことである、という。つまり変えることのできない二つの事柄によって、私たちが成熟に向かい、実を結ぶことは、後押しを受けていることである、と。二つの事柄というのは、①神の約束(神は偽ることができない)、と②神の約束を確立する誓いである。神は偽ることができないし、さらに神は誓われた。神の約束も誓いも幻想ではない。だから、私たちの信仰の歩みも、神の約束とその約束を確証する誓いによって守られるし、よきに導かれるのだから、それを信頼して前に進まなければならない。そしてイエスご自身も、実はそのようにして約束のものを手に入れた先駆けなのである、というわけである。

旧約聖書的伝統に立って、キリストをどう理解し受け止めていくか、著者の基本的な関心がある。そういう意味で日本人キリスト者は、旧約聖書をよく学ばなくてはならないところがある。聖書全体というのは、旧約、新約合わせてのことであり、そこに流れる信仰理解をしっかり身に着けることが、私たちの信仰と実践の成熟にもつながるのである。

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