マタイの福音書28章

27章の後半から、28章にかけて、修辞的な構造を見ると、キアスムス(交差配列法)があるとされる。中心にある節を挟んで、対応構造が見られ、中心のものが強調される並行法である。具体的に、

27:57-61:イエスが死んで葬られる(イエスの完全な死)

27:62-66 番兵が配備される(イエスの死についての対応)

28:1-10 空の墓と、イエスの復活

28:11-15 番兵が報告する(空の墓についての対応)

28:16-20 イエスの主権と永遠の支配(イエスの復活の顕現)

となれば、このパラグラフの全体の中心は、28:1-10のイエスの復活にある。マタイにとって一番伝えたいことは、イエスの復活である。それが旧約聖書の預言を証する福音書の最後に伝えられる、最も注目すべきことである、となる。

さてその復活の主の第一声は、「おはよう」である。翻訳の難しさであるが、考えてみれば、第一声が「おはよう」は奇妙である。ギリシヤ語では、日常的な挨拶語で、英語で言えば「ハロー」に当たるとされる。十字架というあまりにも重々しい出来事があった後のはずであるが、それは、イエスにとっては、一つの通過点に過ぎなかったかのようである。確かにイエスは目的を持って歩んでおられた。だから、イエスは、復活されると、弟子たちを待たずに、先に、弟子たちを会うと約束されたガリラヤへと急がれたのである。それが、墓が空であった、ということの本当の意味なのだろう。イエスが本当に復活されたのか否かが問題なのではない、イエスが神のご計画を成し遂げるために、予定通りに物事を進めておられたのに、弟子たちにはそれがわからなかった、すべての理解において後追いであった、ということである。だから、イエスを確認した弟子たちは、主の主であることを認め、尊敬を抱いて、地に伏して「御足を抱いた」のである。

続いて、復活したイエスがなさったことは三つ。権威の宣言(18節)、命令(19-20節)、そして約束(20節)である。まず18節、イエスはご自分にすべての権威が与えられている、と語る。考えてみれば、イエスはもともと権威を与えられる必要はない。しかし、罪人を救うメシヤとなられるために、イエスは一度父なる神の権威の下に徹底的に服された。そして復活したイエスは再び、その権威に戻られた、ということだろう(ピリピ2:5-11)。また先にマタイは、イエスをユダヤ人の王として(1:1-17)、地上の権威ヘロデに優る王として(2:1-12)描いている。その王がエルサレムに入場すると(21:1-11)十字架につけられるわけである(27:11-37)。だがそれで終わりではなかった、イエスは復活によって、確かにユダヤの王権に優る、万物の支配者であることを示されるのである。イエスは間違いなく地上の権威にまさる、王の王であり、主の主である。

その主が命じられることは、二つ。バプテスマを施すことと、教えることにある。バプテスマはキリストにつく者であることを決意することである。そして教えるというのは教養が深まるということではなく、生活学習、いわゆるキリストにつく者として生活することを教えることにある。果たしてそんなことが私たちにできるのか。頑なな動かしがたき山のような魂の前に、私たちは、どうやってバプテスマを施し、生活学習を進めたらよいのだろうか。心配することはない。イエスは約束される。「見よ。わたしは世の終わりまでいつもあなたがたとともにいます」と。宣教は、キリストと共に、神の業としてなされるものである。大事なのは、山を動かす信仰を持ちうるかどうかである。

この権威ある種を彼らは礼拝したが、彼らの中には疑う者もいた。それは、信じない者もいたということではなく、トマスのように、復活の現実性を受け入れるまで他の者よりも時間がかかった者もいた、という意味だろう。ギリシヤ語のディスタゾーは、「ためらい」を意味している。確かに「信仰の薄い」者としばしばたしなめられもした弟子たちが、この復活においては、誰もかれもが主を信じることへの及第点を取ったとは思われ難い。しかしその人間側の感情とは裏腹に、主のことばは明瞭に確実に語られた。ダニエル7:14に基づくことばである。

かつてサタンは、この世のすべての国々と栄華を約束したが、イエスはサタンが示すものとは別の方法で、つまり十字架の苦難をしのぶことによって、一切の権威を得ている。その主の弟子であるように全世界の人々を導くことが私たちの使命である。

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