マルコの福音書12章

マルコの福音書12章 神の子イエスの心
1.ぶどう園の農夫のたとえ(12:1-12)
イエスが、神殿で狂人的な振る舞いをした事件の後、ユダヤの宗教家たちは、イエスを殺そうと考えるようになりました(18節)。イエスは、その心を見抜いて、一つのたとえを語ります。あるぶどう園を経営する主人の物語です。主人は収穫の一部を受け取るために農夫にしもべたちを遣わしました。ここで農夫はユダヤ人、しもべははるか昔の時代からイエスの時代まで神に遣わされた預言者たち、最後の愛する息子はイエスをたとえています。つまり、神はご自身の御心を知らせるために、多くの預言者を遣わしてきましたが、ユダヤ人は、彼らの声に耳を貸さず、辱め、打ち叩き、殺してきました。そして最後に遣わされた、神の子イエスにも同じようにするでしょう、というわけです。
ただ、イエスの死は、これまでの預言者たちのそれとは違います。10節、「家を捨てる者たちが捨てた石、それが要の石となった」イエスは悪魔扱いされて殺されましたが、それは図らずも、神の尊い目的を達成したのです。
2.律法学者との論争(12:13-44)
つまり、昨日、イエスは神か悪魔か、果ては狂人かと問いましたが、結論的には神と考えていく方がつじつまが合います。しかも、13節以降の宗教家たちとの論争は、その神であるイエスが極めて常識的で、人間味溢れた方であることも伝えているのです。
たとえば13節、税金に関する議論。当時のパレスチナは、ローマの支配下にあり、その領土は三つに分割され、それぞれに王が任命され統治されていました。しかしその中の一つ、ユダヤとサマリヤに任じられたアケラオ王は、能力不足だったので、この地方だけは、ローマ皇帝の直轄領とされていたのです。ですからこの地方の税金も、ローマ皇帝カイザルに直接治められるようになっていました。ユダヤの宗教家、パリサイ人はこのような税金制度に強く反発し、体制派のヘロデ党とぶつかっていましたから、両者が共に現れたのは、明らかにイエスをことばの罠にかけて失脚させるのが狙いでした。彼らの企みは失敗しましたが、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」と言うイエスのことばは、市民としての義務を果たすことを勧める極めて常識的な内容です。続く復活を巡る神学的な議論についても(18-27)、イエスは、あの世のことはあの世で考えなさい、大切なのは今神をこの世においてどう考えるかということだと理性的に対応しているのです。そして最後に、旧約聖書において最も大切な教えは何かという宗教家の質問にイエスは、「神と人を愛することである」実に簡単明瞭に答えていますが(28-34)、その答えも、人間の実生活において大切にすべきことを語っていますね。
37節、イエスは弟子に問いかけて教えられますね。キリストはダビデの子孫に生まれた者でありながら、ダビデを超えたお方である、地上の権力を超越した、全歴史を支配する万民の救い主、神なのだ、と断言しています。このようにご自分を神としながら、カリスマ的、カルト的なことを言うかというとそうではないのです。最後の、律法学者と貧しいやもめを対比した話は、イエスの心を感じさせてくれます。欲深で偽善的な宗教家に対して、隠れて真実に生きる小さな信仰者のやもめ。イエスは、目に見えない心の真実を、神を信じる者の姿勢として認められるのです。では今日もよき一日となるように祈ります。

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