マルコの福音書11章

マルコの福音書11章 イエスの権威
1.エルサレム入場(11:1-11)
11章からは、エルサレムが舞台となっています。イエスは、エルサレムに入られると、二人の弟子たちを先に遣わします。イエスがエルサレムに入場する際に使われる子ろばを調達するためでした。随分手際のよい話で、弟子たちはイエスに言われたとおりにすると、ちゃんとそのような備えがあった、と言います。そして、イエスはその子ろばに乗り、群衆の喝采を浴びながらエルサレムに入場するのです。彼らは、イエスを「来るべき方」、ダビデの子と呼びました。しかしそれは、その時だけのことです。彼らは後に一転してイエスをのろい十字架につけるのです。 
ともあれ、11節、イエスは、その日、宮を見て回って一度ベタニヤに戻られました。ベタニヤは、オリーブ山の東側に位置する小さな村です。今日エルサレムの神殿の丘を訪れると、その周囲には、ミクベつまり沐浴場付きの家、または宿泊所の跡が発掘されています。しかしそれは、金持ちが利用する場所で、貧しい人々は、大方エルサレム郊外に宿泊しました。つまりイエスはまさに貧しい人々と共に行動した、ということです。
2.二つの行動によるメッセージ(11:12-26)
翌日二つの事件が起こりました。一つは、イエスがいちじくの木を呪いいちじくが枯れてしまう事件です。いちじくの木は、伝統的にイスラエルの象徴です。ですからいちじくに対する呪いはイスラエルに対する呪いで、一種の象徴的事件です。つまり、この破壊的な奇跡は、メシヤが来ているのに備えのできていないイスラエルに、神の裁きがあることを伝えています。しかし弟子たちは、その象徴的なメッセージよりも、イエスの一言でいちじくが枯れてしまったことに反応しています。私たちも同じでしょう。私たちも24節、「あなた方が祈り求めるものは何でも、既に得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」というご利益的なことばの方に反応してしまいやすいのですが、文脈の意図は、神の裁きを伝えているのです。それは祈りのパワーについて注目させるものではありません。ですから25節、イエスは弟子たちの的外れな反応に付き合いながらも、神の赦しを求めるべきことに話を戻しているのです。続いて起こった宮清めと呼ばれる事件も、神の裁きのメッセージを伝えるものです。つまり、これも形式化世俗化し、さらには商売の道具と化した神殿の状況に、神がさばきをくだされることを象徴的に語る事件なのです。
3.イエスの権威(11:27-33)
さて、このように神殿をひっくり返す騒動を起こしたイエスの権威が問題となりました。イエスと宗教家たちとの議論が最後に記録されます。イエスは何の権威でこのようなことをしたのか。イエスを天から遣わされた神の子と素直に認めるのか、それとも悪魔的なもの、あるいは狂人的な存在とするのか。宗教家たちは、二者択一の答えを迫られました。悪魔、狂人呼ばわりするのなら、イエスをメシヤと認める群衆が黙っておらず暴徒となりかねません。かといって神の子とも認めたくはない。彼らは苦し紛れに「分かりません」と答えるのです。これも象徴的なメッセージを伝えます。マルコは読者にも同じ問いをなげかけているのです。イエスは神の子か、果たして狂人なのか。あなたはどのように思われますか。では今日もよき一日となるように祈ります。

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