ヤコブの手紙3章

教師であることを目指す、それ自体はよい志であろう。しかし、キリスト教の教師は、自分の考えではなく、神の真理を伝える責任があるのだから、その働きで「格別厳しい裁きを受ける」ことは覚えておかなければならない。だから、教える立場に立ったならば、自分を訓練することである。やはり信仰は日常生活に結び付いた実際的なものだからだ。

特に意識すべきことは舌である。しかしこれほど、コントロールの難しい筋肉もない。舌を制御する結果は、馬を御することや、船の舵をコントロールすることに等しい。だから、舌による損害は、山火事による損害に等しい結果をもたらすことがある。山火事で波のように広がる炎はとどまるところを知らない。舌は、悪意のある言葉を流し、自分が知らない人や何千キロもはなれている人に対しても、中傷誹謗を流してしまうのである。人間はあらゆる動物を飼い慣らしてきながら、舌だけは制御できていない(8節)。舌の矛盾は、同じ舌でもって神を賛美し、同じ舌を持って呪いを語るところにも明らかで、舌は役に立つものであっても、常にというわけではない。もちろんヤコブは、沈黙は金であると言っているわけでもない。大切なのは、リンゴの木はリンゴの実だけをならせるが、舌は相反する二つの実をならせる事実である。

そもそもの問題は、舌を動かす心にある(16節、マルコ7:20-23、マタイ15:18)。不平、自慢、嘘、偽り、といったことばが出てくるそもそもの源、心が問題なのだ。実際、なぜ私たちが自分を誇るのか、と言えば、それは、心において深い満たしを得ていないからである。どこか人に認められることを求めている。となれば、舌を制するためには、まず神に認められ、神に愛されていることを覚えることが大切なのだ。またどうしてうそ偽りを語るのか。それは、心がごまかしに満ちているからである。しかし隠されることは何一つない、神の前に生きていることを悟ることがその処方である。舌を動かす心を主にあって取り扱われ、真に変えられていくことに、その解決がある。

そこで13節以降は、決して唐突に話題が変わっているのではなく、内側の問題、それが言葉にも、行動にも現れることに注意を向けているのである。結局、心が曲がっていれば、その人の言葉のみならず、行動も生活も同じである。対比されているのは、上から来た知恵と、苦いねたみと敵対心である。キリストにあって救われた私たちは上からの知恵に生きている。もはや古い肉の思いのままに生きているわけではない。ここで言う知恵があるというのは、IQが高いことではない。弁舌が巧みだということとも違う。むしろ真の知恵は第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものである。それは、動機において純粋なのだ。確かに、人間が尊敬を得るのは、その心において純粋な動機を持っているかどうか、どのような心を持って生きているか、に負うところが多い。結局、口先上手な人間はそれとわかるものであって、その人の内側が見られるのである。

確かに、その人の心の中に、平和があり、温順があり、あわれみがあり、えこひいきがなく、なんら見せかけがないならば、人は安心してその人に物事を頼むことができるものだろう。しかしその心に偽りがあり、ねたみがあり、苦々しさがある人にどうして信頼を置くことができるだろうか。そういう意味では、私たちは能力があること以上に、また知識があること以上に、心が純粋であることに最大の知恵を見出さなくてはならない。真にこのような平和で満ちた人々が増やされていくように、神の子が増やされていくようにと祈ることとしよう。

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