ヤコブの手紙4章

3章の続きとなるのだが、そもそも、どうして教会内に争いが起こるのだろう。基本に戻って考えてみれば、それはやはり霊的に未熟であること、肉の性質が聖霊のお取り扱いを受けていないことにあるのだろう。人類の歴史は、争いに満ちているが、神を信じる者たちの間でも同じであったりする。しっかりと自分の内なる肉と向かい合い、自らの成長を達成することが大切だ。

そこでヤコブは、争いの原因として内なる欲望の問題を取り上げる(2節)。確かに、アブラハムの甥ロトは、貪欲さの故に、アブラハムと争った。そして、家族をその堕落の町の危険にさらしている。ダビデは、むさぼりの故に、姦淫の罪を犯し、家族に大きな争いをもたらしている。つまり、私たちが欲望に身を委ねるならば、そこから三つの結果が生じるのである。一つは、人殺し、相手を否定して、自分を押し通そうとする。二つ目に、争い、互いに傷つけあうことが起こる。そして最後に祈りの失敗。動機が不適切な祈りとなる。ただ自分自身を満足させるために祈るのであって、神の栄光、神への奉仕のための祈りはおざなりになる。真の祈りは、神様の方法によって私たちの必要が満たされるように神様に委ねていくものである。

また私たちが争うもうひとつの問題は、世を愛する(4)ことにある。世は、神から分離された世界を意味する。そういうものを愛することから問題が生じる。

そこで欲望の問題を克服する方法について考えてみよう。ヤコブは、その前提として、私たちに聖霊の力(5節)を覚えるように注意を喚起する。争いごとを自分の力で解決するのは難しい。まずは、主よ、あなたにこの解決をゆだねますと、主の働き、主の導きを覚えることである。

そして主が恵み豊かな方であることを認めるように促す。神をどのように理解しているか、これが全てである。霊的な未熟さは、神観の未熟さ、小ささである。偉大な神の高さ、広さ、を感じているかどうか。まずそこから始めなければならない。その上で次のような実際的な助言に耳を傾けよう。

第一に神に従い、悪魔に立ち向かうことだ(7節)。君は間違っていないと語りかける悪魔に立ち向かうことである。自分の間違いは潔く認めることだ。次に、神に近づいていこう(8節)

自ら神との深い愛の関係を促進していくことである。そして、手を洗いきよめ心を聖くしよう(9-10節)。私たちを神の敵とする汚れを一切取り除くことである。そのためには謙虚にならなくてはいけない。謙虚にならずして、自分の現実を知ることはできないからである。高ぶった目に自分の過ちは見えにくいものだろう。また、兄弟の悪口を言い合わないことである(11節)

原意は「けなす」である。他のクリスチャンより自分が優れている、と見下すようであってはいけない。そして、兄弟をさばかないことだ(11節)。人を正しく裁くためには、その人の心の中の思い、動機、置かれた特殊な状況、など、その人を完全に知らなければならない。しかし、人間にそのようなことはできない。人を裁くことができるのは、神だけである。だから、神の主権を認めよう(12-16節)。私たちは、明日のことすら分からない身である。予期しない事故、死、失業といったものが、一瞬にして私たちの人生を変えてしまうことがある。長い命を保証することもできない。私たちの運命の主である神を無視する事ほど大きな高ぶりはない。最後に、神のみことばの真理に自身の生活を照らし合わせ、なすべき正しいことを知り、そのことを実践していくことだ。神あるゆえの自分ゆえに、「主のみこころであれば」と物事のすべてに神を勘定に入れて歩むことである。神は飾り物ではない。神の前に生きている、謙虚な恐れをもって、歩ませていただきたい。

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