ユダの手紙

教会には、信仰を伝える努力と同時に、信仰の純粋さを守るための努力がある。つまりこれは正しいこと、これは間違っていること、と教えていく努力がある。結局信仰は、価値、考え方の問題で、私たちが拠って立っているのは、聖書の価値なのだから、聖書の価値を互いに共有することが重要なのだ。ユダがこの手紙を書き送った教会は、聖書の価値とは違う考え方に影響されていた。彼らは、信徒の仲間に入り、愛餐の席に連なっていながら、真理を曲げ、否定し、神の恵みを嘲笑する者たちであった。こうした偽教師の運命は、以下のように記されるが、このあたりは、ペテロの手紙第二2章の内容とよく似ている

①エジプトから救い出されても信じない人々は滅ぼされた(5節)

②自分の領域を守らない御使いは、永遠の暗闇に閉じ込められた(6節)

③ソドム、ゴモラは、永遠の火の刑罰を受けた(7節)

語られていることは、あまりピンとこないし、今の教会とは関係がないように思われることもあるかもしれない。しかし、彼ら偽教師の本質的な問題は、神様を畏れないことにある。神の戒めに耳を貸さないことにある。神は、申命記6章にて、私たちが神の戒めに聞き従うことが幸せの法則そのものであることを語っている。そういう意味では、私たちも、神を畏れておらず、高慢になり、神の恵みを放縦に変えている現実があるのであって、そこに気付かない限り、私たちはこのユダの手紙のメッセージの深さを理解することもできないだろう。

続いてユダは、そういう問題が私たちにはあることを理解させた上で、どのように、信仰の純粋性を保つ問題に対処するのか、戦っていくべきかを語っていく。

第一に、そのような背教は、当然起こることと心得よう(17-19節)。教会の中で、指導者に不従順であること、また、教会を分裂させるような問題は、当然起こることである。それは、自分の不敬虔な欲望を野放しにする者が現れるからである。クリスチャンと称しても、その中身は色々である。時代が悪くなればなるほどに、識別の目を働かせなくてはならない。

そこで第二に自分の信仰を育てることである(20,21)。神により頼んで、ますます自己ベストの信仰を進ませることである。1年前の自分と比べて、どれほど信仰が進んだのか。あの人よりはまし、そんな生き方ではなくて、今日、自分の信仰は1年前の自分、2年前の自分とどれだけ違うか考えてみることだ。どれだけ、聖霊によって祈るようになったのか。どれだけ、神の愛に生きるようになったのか。どれだけイエス・あわれみを待ち望むようになったのか。いつでも神の恵みの中にあって、私たちの信仰が進んでいくことへの関心を失わないことだ。

そして第三に、不信仰と不敬虔の者たちを救い出すことである(22、23)。自分のことだけを考える信仰に成長はない。疑う人々に、心から同情し、その人を敵とみなさず、いつでも暖かく受け入れてあげるのだ、という。火の中からつかみ出すようにして助けてあげなさい、しかし、罪に巻き込まれてはいけない、それではもともこうもないのだから、罪は忌み嫌うことである、と勧めている。そういう意味で、教会に切り捨てはない。識別の目は働かせるが、排除するのではない。包み込んで、主の力によって、主のものとされる、命が刷新される場が、教会なのである。神のみことばに生きる時にこそ、私たちは成長する

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