ヨシュア記13章

ヨシュア記13章 残された地と東岸の分配
<要約>
おはようございます。老いたヨシュアに配慮し、ねぎらいのことばをかけ、老いに相応しい働きを加えてくださる主の愛情が伺えるところです。また、無意味なカタカナの地名の羅列に、約束通りにパレスチナの地を与えてくださった神の誠実さを思わされるところです。神を深く味わい知る、それこそ日々の聖書通読の喜びでしょう。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.ヨシュアへのねぎらい
 ヨシュアは年を重ねて老人になった。そんなヨシュアに神が語られる。「あなたは年を重ね、老人になった。しかし、占領すべき地は非常にたくさん残っている。」(1節)。神は副将のヨシュアに共に戦った過ぎる時を振り返り、ねぎらいの言葉を書けると同時に、さらなるご自身のビジョンを分かち合っている。しかしヨシュアは、神とは違う時間軸に生きている。彼は確かに年を重ね、彼の意欲は明らかに減退し、身体はもちろん精神活動も弱くなっていたのである。人間には限界がある。だから神はヨシュアにもはや戦闘の前面に出ることよりも、戦略的に土地を分割する仕事を割り当てておられる。神は老いた者にさらに叱咤激励して、全力を尽くすように語るようなお方ではない。しかし一方でもうお役目は終わったのだ、と時期早々に肩を叩いて背を向けられるような方でもない。労をねぎらい、共に戦った時の思い出を共有し、その老いに相応しい働きを、加えてくださるお方である。神は愛である、というのは、こういうことだろう。
2.さらなるチャレンジ
それにしても、神の計画は、実に1人の人間が成し遂げることを超えている。6節、主将の神は「わたしは彼らをイスラエルの子らの前から追い払う」と、老いたヨシュアになおも前へ進もうとするご自身の決意を示されている。人は老い、その働きを次の世代へと委ねていく。しかし神は決して老いることも、疲れることもない。神は永遠に変わることはない。
そういう意味では、私たちが行っていることというのは、本当に小さなものであり、神のご計画の一端を担っているに過ぎない。人の働きを見ていて、ある者は大きな足跡を残し、ある者は小さな足跡を残した、と思うこともあるものだが、実際には、皆主将の神がお進めになった働きであって、あの人もこの人も副将、彼らの業績ではないのである。「わたしは…追い払う」と語る主の働きなのである。そのように皆で主の働きに参加している、主の働きに携わっている、という意識をもって、主を中心としてお仕えしていくことが、何よりも大事になるのだろう。
3.征服地の確認
これまでの流れを振り返れば、第1部の土地の征服(2-12章)の記録があり、大まかにパレスチナが占領され、戦争が終わると第2部の土地の分与(13-22章)の記録に入る。8節からは、その部族名と地名が長々と羅列された土地相続の記録である。読みにくいカタカナの地名が書き連ねられ、それはどこなのだろうか、とよくわからない感じである。
しかし、丁寧に読んでみると、2節から7節が一区切りで、ヨルダン川西側のパレスチナ全土を概観している。8節から13節は、ヨルダン川東側の占領地全体を北から南へと概観している。つまり13節までは全般的な記述。後半は、部族ごとの具体的な分割地について述べられている。たとえば、15から23節は、ヨルダン川東側の南、ルベン部族の土地、24節から28節は、ガドに割り当てられた地域、そして29節から31節は、マナセの半部族への割り当てが述べられている。
そのように読み、創世記からの流れを思い起こしてみると、これは、アブラハムたち族長に約束された地が、その子孫に確かに分け与えられたという神との契約の成就を確認している記述であることがわかる。つまりこの13章以降は、今の私たちにとっては、意味不明のカタカナの羅列に過ぎないとしても、当時の読者にとっては、確かに主は生きておられる、確かに主は力強く言葉通りに追い払ってくださった、と感慨深く、主の誠実さを思わせる箇所であり、また更なる信仰を鼓舞されるところでもあるのだ。
なおレビ人は、主への奉仕に献身した者として選ばれ、彼らに相続地はない。「イスラエルの神、主への火によるささげ物、それが彼らの相続地であった」(14、33節)とされる。こうしてレビ人は、イスラエルの全土に散らされた。しかしそれによって神を礼拝する民としてのイスラエルの一致が守られていく。不思議なことである。神は今日も同じように、町ごとに長老(牧師)を任じておられる。それによって神の民としての統一が守られている。神にとってルーテルもカルヴァンもウェスレーも副将に過ぎない。色々な教派がありながらも、主への奉仕に献身した者が選ばれ配置されることによって、普遍的な主の教会が導かれている。地に相続地を持たない主の働き人の大切さはそこにある。主将である主に仕える働きこそ、大事にされるべきものである。

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