ヨハネの福音書20章

マリヤは朝早く、まだ暗い内にイエスが葬られた場所へやってきた。ルカは、この時彼女が香料を持参していたと証言している(24:1)。香料は、死体を処置するためのものである。イエスは、過ぎ越の祭りが始まる夜、慌ただしく葬られたので、もう一度しっかり葬りなおそうとされたのである。彼女たちを含め、弟子たちは、イエスの復活について全く理解していなかった(9節)。老ヨハネは回想し、ペテロ、ヨハネ(おそらく)、マリヤ三様の反応を記録する。ヨハネは空の墓を見て信じた。しかし、マリヤは、イエスのからだが、誰かに奪われた、と墓のそばにたたずんで泣いていた。そんなマリヤにイエスがご自身の姿を現している。

興味深いことは、ヨハネにイエス昇天の記録はない。ヨハネは、十字架から復活までを記録し、イエスの死は、マリヤに対する諭しに見られるように、天の御父の元に戻る過程として描かれている。おそらくそれは当時の読者の事情によるものだったのだろう。説教は、神のことばの真実を伝えるものであるが、同時に、聴衆の状況に適応して語られる。それは、迫害の苦難と死の危機に迫られていた当時の読者には、イエスの十字架の死にこそいのちがあった、そして初め弟子たちもそれはわからなかった、と教えられなければならなかったのではあるまいか。

だからマリヤが戻って弟子たちに伝えられるように、求められたのは、単純にイエスが復活した、ということではなくて、十字架の死に直面したあのイエスが、天の御父の栄光の元に戻りつつある、ということだろう。苦難の中にある読者よ、あなたは天の御父の栄光の元に戻りつつあるのだ、ということだ。

続いて19節、ユダヤ人を恐れて集まりあっている弟子たちにイエスが現れている。イエスは、「平安があるように」と語り、息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われた。聖霊を受けるのは、この後のことであるが、イエスは、重要な恵みを分かち合っている。キリスト教信仰は、平安と聖霊にあるいのちの祝福である。これは何物にも代えがたい。しかし、これらは皆信仰を持って受け止めるべきものである。苦難の中にある読者よ、あなたがたにとって栄光を受けるか否かは、信仰が全てだ、というわけである。

マリヤもトマスも、現代の科学的、合理的人間の代表のようなものだ。証明されたもの以外は受け入れられない。しかしパスカルが言うように、不合理であるが故に信じるものもある。信仰は、証明できないからこそ、信じるのである。たとえば走れメロスという小説がある。メロスが戻ってくるかどうか、だれもそれは証明できなかった。けれどもメロスの友情を、友はひたすら信じた。信じて、じっと待って、メロスの誠実さが証明された。それと同じで、証明できないものの信ずべきものは、人生に多くるだろう。神様の愛と祝福、死後のいのちどれ一つ証明できない。それは信じることである。ただメロスの友が友情を基礎に、メロスの帰りを信じたように、私たちも神の愛に基づいて、神の配慮と祝福そして死後のいのちも期待できるのである。では、どのように神は私たちを愛してくださったのか。イエスが十字架に死に、私たちの罪を赦し、神の子としてくださったことによってである。イエスの十字架の愛に基づいて、さらに必要なものは一切備えてくださらないはずがないという信仰を持つのである。

「信じない者にならないで、信じる者になりなさい、見ずに信じる者は幸いです」(29節)神を信じるためには、十字架のしるしだけで十分なのである。私たちの肉の性質は物事を信じないことにある。私たちは神を信じないだけではなく、人も信じない。信じる力の弱い人は、神との関係のみならず、人との関係をも打ち壊していく。信じることは最も基本的で大切な能力である。信仰を持つことで人間関係が回復されるというのは、信じる力が養われるからである。となれば、信仰は、あの世だけのお話ではない。この世で生きる私たちのありようも変えるし、それにともなって、私たちの人間関係を変えていくことにもなる。

マリヤもトマスも、頑なに神を信じようとしなかったが、神が一方的に恵を表して、信じるようにしてくださったことに大きな意味がある。信じる行為もまた、恵によるのである。一生懸命信じようとしても信じられるものではない。信仰は上から与えられる。謙虚に神のもとに遜る時に、神が備えてくださるものである。

以前、キリスト教信仰がわからず、ヨハネの福音書を繰り返し読んだことがある。繰り返し、読み、朝が明けた。自分には信仰はよくわからない。そんな思いで、気持ちが諦めかけた時に、朝日が差していることに気づいた。しばらく朝のやわらかな日差しに包まれていることを感じながら、ふと、創世記1:1「初めに神が天と地を創造した」を思い出し、恵み深い神の御手に包まれて生きている、とふと思わされたことがあった。なるほど、自分は神がわからぬ、神がいるのかいないのか、そんな風に考えていたが、実際には、神の造られた世界の中に生きているではないか、と気づかされた瞬間だった。自ら信じようとして信じたわけではない。神が気づかせてくださった、信じるように導いてくださった瞬間がある。

神を信じたいならば、マリヤがそうであったように、主のもとを離れないことである。トマスも、弟子たちの交わりから離れずに、復活のイエスに会う時を迎えた。イエスは求める者にその力を表してくださる。諦めずに、イエスに恵を請うことである。

 

 

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