ヨハネの福音書19章

イエスは、ローマの法律で裁かれ、死刑が確定された。罪状は自分をユダヤの王であるとする、ローマ帝国への反逆罪である。ピラトは一貫してこれが、ユダヤ人のねたみによる、扱う必要のない裁判であると考えたのだろう。彼は強盗のバラバを引き出して、イエスと比べ釈放する努力をしている。イエスをむち打ちにし、ユダヤ人が満足し、求刑を取り下げることを望んだ。イエスに何の罪も見いだせなかったからである。だがユダヤ人たちは、これを受け入れようとはしなかった。

ピラトは、イエスが「神の子」とされたことを恐れている。それは、ローマ皇帝が自分を指すのに使った呼称を、自ら用いる人物がいることに、またそのことばが不思議にも真実味を帯びていることに対する恐れであったのではあるまいか。だからピラトはイエスの素性に関心を持たざるを得なかった。イエスの答えは「上から」である。

ピラトの心を定めたユダヤ人のことばがあった「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています」(12節)。ピラトにとっては、目に見えない権威よりも目に見える権威の方が現実的であり、確かなことであった。ピラトの失敗は、自分に権威を与えたのは、カエサルではなく、カエサルの権威を許された神であることを理解できなかったことである。

ピラトは、結局はユダヤの宗教家の声に押される形で、イエスをユダヤ人に引き渡してしまった。結果的に、無実なイエスに十字架刑を言い渡す結果となる。ピラトの弱さは、私たちの現実でもある。私たちも正義を貫くべき時に、圧力に押されてしまいがちである。だが私たちが、ピラトと同じようにイエスを見捨てたとしても、イエスが私たちを見捨てることはない(ローマ8:38-39)。私たちの不誠実さにもかかわらず、私たちの側に立ち続けられるイエスがおられる。

しかし、イエスは、これを神のご計画であると受けとめていた。この世の権力と、神の支配が、対比される。これは、イエスの足元にいた四人の兵士と、信仰深い四人の女たちの対比にも象徴されている。イエスは、十字架上にあってこの世の権威、この世の家族の絆を超えた、神の支配、神の家族の絆に注意を向けさせる。十字架のイエスの前に、いかに、私たちが目に見えない、神の支配と神の家族愛の中に目覚めるか、そこが人生の大きな分かれ道でもある。聖書のことばを聞きながら、なかなか信仰を持てない人と、信仰を決断していく人との違いは、この世の現実を越えて目に見えない神に信頼する心を持てるか否かにある。目に見える現実を越えて、目に見えない神を信じる、これが信仰の初めであるし、終わりである。

イエスは、十字架の上で、すべて彼が世に遣わされた使命が果たされたことを知って「完了した」と言われ、頭をたれ、霊をお渡しになった、という。「完了した」というのは、十字架によって、すべての救いの計画が完成した、ということである。神の人類に対する救いの計画は、ユダヤ人の文化を背景としている。ユダヤ人には、動物を犠牲にして、小羊を屠り、血を流す儀式を通して人の罪は聖められる、と考えた。イエスが十字架で血を流し、ご自身を犠牲にしたというのは、そういう文化の中でこそ、これが全人類のための一度限りの、最終的で完全な罪の赦しのためのいけにえであった、という理解につながるのである。

ヨハネは、イエスの十字架上の様子を詳細に記している。イエスの脇腹を槍で突き刺した時に、血と水が出た、という。その出来事を回想しながら、そこにヨハネは霊的な意味があることを語ろうとしているのだろう。確かに、「血を注ぎ出すことなしには罪の赦しはない」(ヘブル9:22)とあるように、流された血は人類の救いを達成した。また、水は、ヨハネが記述してきたイエスの生涯にたびたび出てくるように、いのちそのものを象徴する。その証は真実であると語る。イエスにある罪の赦しと新しいいのちの付与が、神の深い恵みにより私たちのものとなった瞬間であった。

人間は、どんなに立派に見えようとも、その内面において罪や欲望から自由であるという人はいない。罪の奴隷であり、生まれながらにして神を認めず神に背く反逆の子である。しかし、イエスは、ピラトも恐れたように、神の子であり、その人生は完全であり、罪からも全く自由なお方であった。神の目から見れば、それこそ体裁のみならず、隠された内面も完全な生け贄に相応しいお方であった。イエスと3年間寝食を共にしたペテロも言う。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りもみいだされませんでした」(1ペテロ2:22)。またパウロも言う「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちがこの方にあって、神の義となるためです」(2コリント5:21)。

このイエスの尊い犠牲がささげられることによって、神がご計画した救いに必要な業は完遂された。また、これらが旧約からの預言の成就であるというところに、神の救いの業の完成が確認されるのである。イエスの打ち傷によって、癒され、新しくされたことをおぼえよう。私たちは、この神の恵みを受けるように招かれている。

 

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