ヨブ記8章

8章 ビルダデのことば

<要約>

おはようございます。人間というのは、どうしても物事を一面的に単純化して判断しやすい者でしょう。しかし、複雑なものを複雑なままに、ありのままに受け止めていく、度量こそ、必要とされています。けれどもそのような度量というのは、忙しい毎日をやりくりする生活の中では決して養われないものです。強いて時間をとり、永遠でありかつ無限の神であるお方とよき交わりを持ち続けること以外には、人間の魂の成長はないのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

  • 抗議せずに悔い改めよ(1-14節)

シュアハというのは、アブラハムの妻ケトラが生んだ子の一人としてその名前が記録されている(創世記25:2)。恐らく、シュアハ人ビルダデは、その子孫なのだろう。

ビルダデは、まずヨブの嘆きのことばが、知恵あることばではなく、怒りに任せて空しいことを語る愚かなものであると言う。それは中身のない「激しい風」(1節)なのである。そして先のエリファズは、人間の罪深さを強調したが、ビルダデは神の公義を強調する。神が法と公正さの道筋をそれたりすることなどありえないことなのだ。だから、ヨブが自分に罪を見出せないのであれば、問題はその子らにある、とする(4節)。ヨブの子らの悲惨な死は、彼らの罪の刑罰だ、というわけである。そこで立ち返って、抗議を繰り返すのではなく、哀れみを求めるべきなのだ。純粋で真っすぐに、求めるなら、神があなたのために起き上ってくれるだろう。そして、再びあなたを回復させてくれる。いやそれ以上のことをしてくださるはずだ。確かにそれは教理的には言えても、打ちのめされたヨブにとっては実に乱暴な言葉に違いない。

以前、同労者に自殺者が出た時に、随分と悩んだことがある。親しくしていたことや、自殺に追い詰められた状況を考えれば、なおさら自殺者に対するキリスト教的理解について長らく悩まされたことがある。そのテーマを抱えながら聖書を読み続け、一年経ったある日、「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」(黙示録21:4)という天国の情景を描いた、一節に光を与えられた。もし、私が天国に行き、そこでその同労者に会うことがなければ私は悲しい思いをするだろう。しかし、天国では悲しい思いをすることがない。ということは、どういう展開になるのか全く理解できないが、神は、その同労者について私が悲しくなるようなことはなさらないのである、と納得した。以後、その件について私は全く神に委ねることができるようになった。神の御心は、人間の神学を超えている。プロテスタント神学、カトリック神学、それぞれの考え方があるだろうが、神は人間の神学に綺麗に収まるようなお方ではない。神のなさることを、全て人間の頭脳で公式化することはできない。杓子定規に教理を語ることのできないゆえんである。神は、まことに生ける神であり、私たちの思いや考えを超えたことをなさるお方である。

2.先人の経験に学べ(8-15節)

確かに、ビルダデの教理は正しい。先のエリファズは、自分の主張を個人的な経験から補強したが(4:12)、ビルダデは、先人の経験に訴えて普遍化している(8節)。神は正義を曲げることはしない。熱心に神を求めるなら、神は回復される。それは、先人の経験に裏付けされた真理であり、間違いのないものである。そしてさらに、自然界の法則に訴える(11節)。パピルスにしても葦にしてもそれが生育する環境条件があるものだ。その法則を打ち破れば、どんな草花もまだ成長しきらないうちに、抜かれる前に、枯れる他はない(12節)。神との交わりを大事にしない者も、同じなのだ(13節)。そんな子どもたちによりかかったことが間違いではないか(14節)。なんとも頼りにならないものを頼りにしたものだ(15節)。自分の息子たちに支えを求めた結果、彼らも私たちももろともにひっくり返るのだ。

3.神を敬わない者と敬う者(16-22節)

神を敬わない者は、家の壁に張り付くツタのようなものだ(16節)。それは青々と茂り、石造りの家に所かまわず這い上り、それを覆いつくそうとする(17節)。しかし、その目障りなツタに、我慢ならぬ人がこれを取り除くと、そんな光景などなかったかのように、ツタとは関係がなかった、と家も呟く(18節)。つまり、不敬虔な人の繁栄も一時である。そして同じように不敬虔な者は、後から湧いては消え去っていくのである(19節)。

しかし誠実さをもって神に仕えようとする人を神は退けることはない(20節)。だから神は、あなたがそうであれば、間もなく笑いを取り戻し、喜びの叫びを口に上らせてくれるだろう(21節)。今のあなたを蔑む者は、やがて恥じ入ることになる。不敬虔な者の生活はあとかたもなくなるからである(22節)。

確かにビルダでよ、あなたのおっしゃるとおりである。しかし、エリファズもビルダデも神とサタンの取引については知らずにいる。ヨブの不幸は、ヨブ自身のあるいは、ヨブの子どもの問題によるのではなく、サタンがヨブの人生に介入したことによるものであった。サタンがヨブを試すことを神に求めた。そして神がサタンに試す機会を容認したのである。そしてその理由は人間には理解できない。人間が把握しきれないことが起こっている。

ビルダデは言う。「神は誠実な人を退けることはなく、悪を行う者の手を取ることはない」(20節)。確かにそのとおりである。しかし、そうではないことが私たちの人生には起こりうる。一面的な真理を持っては決して説明しきれない問題が生じうるのだ。だから、人の世に起こるあれこれについては、いつでもわからぬ何かがあるぐらいの気持ちで、物事を多面的に見て、複雑なものを複雑なままに受け入れ、神の御心を探り続ける人間的な深さを持ちたいところではないだろうか。

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