レビ記24章

24章 御名を冒涜する罪と罰

<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。「目には目を、歯には歯を」キリスト教信仰を持っていない人でも、よく口にすることばが、この箇所にあります。イエスはこの言葉を引用して、さらにその本来の意図がなんであるかを教えておられます。考え方をよく理解しておきたいところですね。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

 24章は、祭司の聖所に関する三つの重要な働きが取り上げられる。
1.祭司の聖所に関する働き(24:1-12)
 第一に灯火をともし続けること(1-4節)。オリーブ油には燈火用、植物用、油注ぎ用の三種類があり、灯火用のものは、純粋なオリーブ油を絞ることによって得られた。その油を主の前に夕方から朝まで、つまり夜通し灯し続けるのである。聖書では、金の燭台は主なる神の臨在(ゼカ4:2、11)、教会(黙1:12-13)、忠実な証人(黙11:4)の象徴とされる。つまり、それは、キリストの救いを指し示す光である。キリスト教ラジオ番組の「世の光」放送は、その昔「暗き世の光」としてスタートしたという。まさに万人祭司と言われる今日においては、キリスト者すべてに、神の臨在とキリストの救いの光を証し続けることが求められている。
 第二に、パンを供えること(5-9節)。安息日毎に、12個の輪型のパンを焼く。そのパンは非常に薄く、厚さ約1.2センチ、指一本分の厚さで、長さは約70センチ、幅は約31センチと大きなものである。これが純金の机の上に置かれたという。机の大きさは、幅約90センチ、奥行約45センチであるから、おそらく、鏡餅のように6枚重ねて二列に置かれたのだろう。パンは毎安息日ごとに用意され、古いパンは、祭司の食用とされたが、祭司の家族が食することはできなかった。神が12部族を身体的、霊的に養われることの象徴とされた。さらに言えば、12部族が、神に代わって全世界を養うようになることの象徴である。
2.御名を冒涜する罪(24:10-23)
最後に御名の栄光を守ること(10-23節)。神の御名が冒涜された一つの出来事が取り上げられている。法規的な話が続く中で、唐突な感もしないではないが、一つ一つの戒めは、私たちの日常性に関わるものとして、理解すべき事例である。
人が神を冒涜した場合には、その罪を問われる。それはモーセの第三戒を侵すことであり、神をのろうことの償いは死とされる。それは、事前に計画された殺人行為に等しい罪とされた。つまり神を冒涜することは、意図的に人を殺すことと同様に極刑に値する罪と考えられたのである。神は象徴的な存在でも、便宜上の存在でもない。目には見えないが人格を持ち実在している。そのような神に対する冒涜は、神を否定することに等しい。イスラエルの民は、自分の子どもたちが神を恐れるように育てることを期待された。
 20節「目には目、歯には歯」いわゆる同害報復の教えとされるものである。報復は同じ程度のものでなければならない、という意味で一般には理解されている概念であるが、聖書がこの考え方で強調しているのは、報復行為において限度を超えてはいけないという点である。一時流行ったことばに「倍返し」というものがあった。人には、やられたらやり返すどころか、やられた以上にやり返す心があるものだ。報復はエスカレートするものである。しかしそのような心を持ってはいけない。報復する時には、限度を弁えなくてはならない、正しい裁きが優先されなければならない、と言っているのであって、やられたらちゃんとやり返しなさい、と私的報復を正当化しているわけではない。つまり、この教えは、報復に強調があるのではなく、罰を与えるにしても、そこに厳正で適正な正義がなければならない、ということを言っている。だから、後にイエスは、この教えを取り上げて、「目には目を、歯には歯を」と聞いているだろうが、「悪い者には手向かってはいけない。右の頬を打つ者には、左の頬も向けなさい」と語っているが(マタイ5:38-48)、それは、人間の本質を深く洞察する新しい提案である。つまり人間は争い易い罪の心を持っているのだから、人間に正義はありえない。人間は必要以上の報復を与えてしまうものだから、報復や罰を語っているところに適正な裁きはありえない。もし正義がありうるとしたら、報復を超えた愛に立つ以外にない、ということを言っている。人間は自分たちが自覚する以上に罪深い性質を持ったものである。謙虚にそのような性を覚え、神の愛に立つ歩みへが促されいるのであり、積極的な善を示すためには、そこには聖霊による新生の恵みが必要なのである。
 大切なのは、これが、神の裁きを語る文脈の中で語られていることだ。イスラエルの民は、シェロミテの息子が神を冒涜する事件のために、主の命令を待ったとされる。モーセではない。主の裁きを待った。そういう流れの中で神は、誰が見ても納得するふさわしい刑罰をくだされた。だからシェロミテの息子が侵した罪は、ただ単に口先だけのことではなく、神を否定したのである。彼の罪は神の前で、神に対してなされた、ということである。その罪に対して神は正しい裁きをなされた。神の前にあることを意識して、神と共に歩む人生がある。聖書を読み、聖書に従って生きるというのは、そういうことではないか。ともすると神なき、世俗の中に自分を置きやすい私たちの罪深さを覚えたいものである。

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