使徒の働き18章

18章は、コリントの伝道、そしてエペソの伝道、アポロの救い、といった第二回伝道旅行終盤の出来事を記録する。コリントもエペソも、いずれもパウロが訪問した都市の中では、最も重要な都市で、パウロはそれぞれかなりの期間に滞在した。それはこれらの都市に教会を確立し、周辺地域への宣教拠点とするためであったのだろう。
コリントは、ギリシア本土とプロポンネソス半島の地峡の西側に位置し、古くから商業都市として栄えていた。BC146年、ローマに敵対し、徹底的に破壊されたが、それから100年後のBC46年にユリウス・カイザルによってローマの殖民都市として復興されている。その後、地中海における交通の要所として、早くから貿易と商業の都市として栄え、特にBC27年に皇帝アウグストウスによってアカヤ州の首都、ローマの総督府とされてからは、アレキサンドリアやエペソに次ぐ大都市となった。ギリシア文化、ローマの政治の中心地として、経済的には繁栄を極めたが、宗教的、道徳的には堕落した町であった。実際、ローマ、エジプト、シリヤの神々が祭られ、偶像礼拝が盛んだったのである。また市の南の丘の上にあったアフロディトの神殿には、ストラボンによると千人の聖娼が、女神アフロディトに仕え、不道徳がはびこっていた。劇作家アリストファネスは、「コリント風にする」のギリシア語、コリンテイアゼスタイを、「不品行をする」の意味に、プラトンは、「コリントの娘」を「いかがわしい女」の意味に用いている。「コリントへの旅は誰にでもとはいえない」との諺さえあった。経済的には栄えていても、道徳的に乱れている都市、何か象徴的であるが、そこに神は教会を設立された。
パウロは、ここでアクラとプリスキラという信仰を共にする同業者と出会っている。また、シラスとテモテがマケドニヤの教会からパウロに軍資金を持ってきて、パウロの伝道生活を支えたようである。パウロはみ言葉を教える事に専念した。コリントでの宣教はチームでなされたのである。しかしさらに重要なのは、彼らの一致の中に、主が働かれたことであろう。
パウロの宣教に対する反対は根強いものがあった。だからパウロの心には、コリントで伝道を継続することへの恐れがあった。しかしそんなパウロに神は、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。~この町にはわたしの民がたくさんいる」と励まされている。パウロたちのチームワークの中に、主が働かれたことによって、約1年半にわたる宣教活動が続けられ、コリント教会の設立の基礎が築かれたと言える。ルカが、ガリオのエピソードを付け加えたのは、キリスト者は、ローマの総督が自分たちの問題に介入することを恐れる必要のない事実を強調するためであったのだろう。使徒の働きは、あくまでも、当時の読者であるキリスト者に宣教を励ますために書かれたことを、ここにも確認できる。
さてルカは、コリントからエルサレムへの後半の長旅をわずか4節で済ませ、23節から、第三回伝道旅行の記録に入っている。しかし実際のところ、これがエルサレムへの旅なのかどうかは不明である。新改訳2017は、欄外注に「エルサレムには補足」こと断り書きを入れている。つまり、原文に「エルサレムに」という言葉はないが、通例の理解として補足を加えて読んでいるのだ。だからパウロは実際のところ、単にカイサリアの教会に挨拶しただけなのかもしれない。ともあれ、この間特記したことは、パウロが、ケンクレヤで髪をそったことである。この習慣は、ユダヤ人が過去の祝福に対する感謝を表すために、あるいは、将来の祝福を求める祈願として、神に対して誓願を行うもので、おそらく、ここでは、前者、コリントで守られたことへの感謝を示すものなのだろう。しかも、ルカは、パウロが、自分がユダヤ人であることを忘れなかった姿を描いているようである。
23節からは、第三回伝道旅行の記録であり、パウロは迷わずエペソに向かった。その前にアポロのエピソードが加えられる。彼は、やがてコリントの教会で重要な人物となるだけではなく、パウロに並び、人々を引き付けるリーダーとなっていく(1コリント3:5-9)が、もともと使徒ではない、パウロの同労者プリスキラとアクラという夫婦によって、聖書の正しい真理に導かれた人物であった。アポロを導いた兄弟姉妹は、信仰の真理をきちんと把握し、霊的な導きを与える力を持つ信徒であった。これは大切な点である。これが初代教会の原動力になったのだろう。人を信仰に導くのは、何も牧師、伝道師に限られた仕事ではない。信徒一人ひとりの業である。そういう自覚がないと、本当に宣教の働きは進んではいかない。日本の教会の問題は、宣教が牧師、伝道師の仕事と思われている点ではないだろうか。そうではなく、信徒一人ひとりが、正しい信仰へ導く力を与えられていくことが大事なのである。アポロを育てたプリスキラとアクラのように、「神の道をもっと正確に説明する」ことのできる信仰者であろう(使徒18:26)。そのように整えられるために、日々神とよき時を過ごし、聖書に精通する努力が必要である。それは一朝一夕によって身につく力ではない。日々の積み重ねであるが、努力する者をやはり神は用いられることをわかっていきたいものである。

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