使途の働き5章

使徒の働き5章 アナニアの偽りと死 1.アナニアとサッピラ(5:1-11)
クリスチャンも色々、と教えられる箇所でしょう。罪を悔い改めて、神のいのちに生きる決心をした人々ですから、教会はさぞ天使のような人ばかり、と思いきや、実はそうではない現実もあるということです。著者のルカは、初代教会のまさに汚点とも言うべき、一つの事件を記録します。初代教会に、バルナバのように、私財を投じて教会の発展に尽くす人もいた一方(4:36-37節)、ここに描かれたアナニアとサッピラのような似て非なる偽善的な者もいたのです(5:1-11)。彼らは、まさにサタンに心を奪われた者たちでした。彼らは「バルナバと同じように、教会員の尊敬の眼差しを得られるぞ」と語りかけるサタンの声に捕らえられてしまったのです。聖書は、サタンはほえたける獅子(1ペテロ5:8)であり、光のみ使いに変装する者であり、惑わされてはいけない、と警告しています(2コリント11:3,13-14)。心に語り掛ける魔の声に気を付けたいところでしょう。そして、4節、サタンの声に乗っかってしまうことは、人ではなく、神をあざむく行為となるのです。人を騙すことはできても、心を見られる神まで騙すことはできません。ですから、誰も見ていない、わからないと思ってすることは、実際には、神の存在を否定する行為です。嘘をつく人も、陰で悪いことをする人も、皆、神を否定する人々です。神は、そのような人々を大目に見ることはありません。やはり正しい裁きを行われるお方です。ともあれ、クリスチャンも色々、私はそのような変なクリスチャンではない、ではなく、自分の弱さを弁えて、神の守りと助けを祈るべきところなのでしょう。そして罪に気づかされることがあったら、即座に、悔い改めて神に立ち返ることでしょう。キリストの十字架は一度限りであっても、その効果は、永遠のものです。
2.強まる迫害(5:12-42)
さて14節、ペンテコステ後、イエスが復活したというメッセージは、エルサレム中に伝わりました。12-16節は、先の2:43-37、4:32-35と同じ、要約的な説明で、次の17節以降の新しい出来事を語る導入となっています。つまり、教会のこのような成功を、誰もが歓迎したわけではないエピソードが続いているのです。17節、宗教的な指導者たちは、イエスに向けた同じ憎しみと敵意を使徒たちにも向けました。それはかつてイエスが予告したとおりのことでした(ヨハネ15:20,16:2)。彼らは、使徒たちを逮捕し、留置場に放り込みます。そのように力でねじ伏せられる彼らの窮状に、19節神が介入されます。再び、27節彼らは使徒たちを捉えて裁判を開いています。群衆の注目もあり、かつてイエスを取り調べ十字架刑に処したような強引なことはもはやできない状況にあり、彼らは正式に裁判を開くのです。29節、「人に従うより、神に従うべきです」と語る大胆な使徒たちの姿と、大した理屈もなく、感情的に応答するのみで、手も足も出ない議会のメンバーの姿が実に対照的です。ペテロは、31節イエスを「導き手、また救い主」(31節)と呼びました。「導き手」には「開拓者、創始者として道を切り開く人」の意味があります。イエスは「救いの創始者」(ヘブル2:10)、あるいは「信仰の創始者」(ヘブル12:2)とも呼ばれています。しかし、大祭司たちには、信仰の創始者などもっての他でした。ただ、かつて使徒パウロも師と仰ぎ、そのお膝元で学んだ(使徒22:3)律法学者のガマリエルは別でした。彼は事の成り行きと結末は神に委ねるのがよいことを知る知恵ある人でした。彼の一言で、使徒たちは解放されていくのです。ウィリアムテンプルと言う人は、こう語っています。「クリスチャンは、最も困難な義務に召し出されている。傷づけることなく戦わなければならない。敵意を持たずに抵抗しなければならない。そして終局的には、神が認めるならば、弁明なしに勝利しなくてはならない」物事には神の解決に委ねる道もあるのです。

最後に、今日の聖書クイズを一つ、紀元6年、クレニオ総督の時に、住民登録がなされていますが、その主たる目的は何であったでしょうか?①選挙権の確認、②徴税、③徴兵、昨日のクイズの答えは、③祭壇に犠牲をささげとりなしをする、でした。今日の答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。

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