使徒の働き6章

使徒の働き6章 教会の実際的課題 1.配給の問題の解決(6:1-6)
教会に最初に起こった問題は「偽り」でした。次に生じたのは、1節、差別的な問題です。しかしそれは、実際のところ優先順位の誤りというべきものです。つまり教会において第一にすべきものが第一とされていない、教会の働きが多様化し、忙しくなる中で、霊的な事柄が後回しになった問題でした。
ここでは、他国から帰化しギリシア語を話すユダヤ人(ヘレニスト)と、地元のパレスチナで育ちアラム語を話すユダヤ人(ヘブル人)が衝突しています。日々の配給について不公平な対応があったというのです。しかし、2節使徒たちの問題意識は、別でした。不公平な対応となってしまう忙しさ、気を配る余裕のなさ、そして、教会の本来的な機能である福音宣教が後回しになってしまう問題でした。教会が福祉の場になる、あるいは、エンターテイメントの場になり、その不十分さを持って、争いが生じてしまうのなら、それはもはや教会とは言えないでしょう。教会は祈りの場であり、神のことばが分かち合われる場です。それ以外のものが中心となって、人があくせくしたり、衝突したりするような場ではないのです。
コロナ禍によって、教会からは、宣教のためのイベント活動が一層される事態が生じました。しかし、私は、そこで宣教が出来ないと嘆くのは違うのかなと思います。サマリアの女がそうであったように、宣教は人を通してなされるのであって、プログラムによるのではないのです。福音を掴んでいる人が、福音に生きている、そこに宣教の力がなければ、何をしても無駄でしょう。ともあれ、教会は、教会が第一とすべきものを第一とするために、霊的な働きを担う12使徒とは別に、副次的な慈善活動を担うための働き人を7人立てることになりました。これによって生じたのは、宣教の強化、教会の本来的機能の強化です。 2.ステパノ登場(6:7-15)
8節からは、先に選ばれた執事の一人、ステパノにスポットライトが当てられます。ステパノは、初め評判のよい執事として選ばれたのですが、さらに宣教者としてもよく用いられていたことがわかります。ルカは、ステパノを「恵みと力に満ちた」人であると紹介しています。まさに彼はイエスの弟子というべき存在であり、聖霊も彼と共によく働いたのです。ところが、聖霊が共にあるということは、何でもことがうまく進むということでもありません。ステパノに対する実に難しい敵対行動も生じたのです。それは、ユダヤ人の会堂から起こりました。9節、リベルテンは、「自由にされた者」を意味します。BC63年にポンペイウスによって捕虜とされ、ローマに強制移住させられ、後に解放されたユダヤ人のことです。彼らはエルサレムに自分たちの会堂を建て、リベルテンと呼びました。後に出てくる使徒パウロも彼らと何等かの関りがあったように思われます。実際パウロはタルソ、つまりキリキア地方の出身で、ここでステパノと議論したクレネ人、アレキサンドリア人、キリキアやアジアから来た人々の一人だったとされています。ともあれ、彼らはステパノに敵対し、議論をふっかけてきました。そして議論で勝てないと知った彼らは、力づくでステパノを排除しようとしました。
神の言葉を味わい、生きる素晴らしさがある一方で、神の言葉を語ることの難しさに直面することがあります。というのも、福音は15節「モーセが私たちに伝えた慣習を変える」とあるように、私たちの実際生活に食い込んでくるものだからです。言ってみれば、家に飾る偶像はもう要らない、ということもあるでしょうし、占いやおみくじに囚われて一喜一憂する必要もないと腹を決めることも出てくるでしょう。ある人々にとっては、それは慣れ親しんだ生活習慣を改める脅威になるものです。しかしそれでも福音の恵みは偉大だと言わなくてはなりません。目には見えませんが、まことに生きた神は祝福の神であり、神を受け入れる者に良くしてくださることに間違いはないからです。

最後に、今日の聖書クイズを一つ、イエスの時代、日常的に使われた言語は、次のうちどれでしょうか?①アラム語、②ヘブル語、③ギリシャ語、昨日のクイズの答えは、②徴税でした。今日の答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。

“使徒の働き6章” への1件の返信

  1. 福井先生

    昨日の箇所ですが、5章ガマリエルについての感想です。

    彼は、キリスト教会に共感していないようですが、キリスト教会に多大な貢献を二つしました。

    1 パウロを教育した。
    2 使徒5章において、ペテロ達の命を救った。

    パウロ(サウロ)はこの時、ガマリエルの態度が軟弱であると怒りを感じたかもしれません。
    回心後、恩師がペテロ達を助けたということを改めて認識し、かつての自分がいかに危険な存在だったか、改めて悔やんだことでしょう。

    本人の無自覚の内にキリスト教会の貢献者となったガマリエルという人に、私は恩義を感じます。
    また、旧約聖書に基づくガマリエルの判断が、普遍的な正しさを持つことに神の正義の絶対性が現れていると感じます。

    S.A.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です