出エジプト記31章

 31章は、技術者の任命(1-11)と安息日について(13-18)語るものである。
1.技術者の任命(1-11節)
 まず、幕屋その中にある調度品すべてのものを作るための技術者が任命される。ユダ部族のフルの子であるウリの子ベツァルエルとダン部族のアヒサマクの子オホリアブである。大切なのは、「知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした」と繰り返されることであろう。この時代は、あらゆる形の技術や力、優れた力は、はばかることなく、神の霊の働きによるものであると考えた。神の働きのために、まず神によって知恵を授けられなくてはならない。まずは神の霊を満たしていただかなくてはならない。
 そういう意味では、祈りをもってすべては始められる必要があるし、自らが何者でもなく、ただ神の尊き栄光をあらわす土の器であることを自覚する謙虚な心が、神の働き人として大切にされなくてはならない(2コリント4:7)。キリスト者が与えられているのは、御霊の務めである。教会に関わる働きはもちろんのこと、家庭を築くことも、一般の仕事に就くことも、神が召して任じてくださっている働きを全うするのだ、と考えることが大切である。
謙虚に祈る、跪いて神の助けを求めて祈ることは、神の働きを進める上での第一原則である。だから、教会は行事を企画し実行するならば、第一に祈ることを大事にしなくてはならない。そして神からの知恵をいただき熟考することが必要なのだ。しかしそれは、家庭を築くことも、一般の仕事を進めることも同じである。
2.安息日について(13-18節)
 次に安息日についてであるが、安息日は、第一に、神と人との間のしるしである(13節)。神と人が特別な関係にあり、神が人を聖別する方であることを知るしるしである。聖別は、神のために特別に分け離すことを意味する。つまり、人格的に、道徳的に、さらには働きにおいて、聖書の水準に向けて高められていくことを意味している。普段、私たちは社会において、世俗的な感覚の中で、また罪の混沌とした世の中で、クリスチャンとして歩むことを余儀なくされている。それが、日曜毎の礼拝において、賛美し、祈り、聖書に耳を傾け、安らぎと希望を得、しばし襟首を正され、反省と内省の時を過ごす。いわば世俗社会の動きとはまったく違う流れに身を投じることで、神のために分け離されていく特権を味わうのである。
 第二に、安息日は、聖なる全き休みの日である。たとえ幕屋を作る重要な差し迫った必要があろうと全く休んでしまうほど重要な日である。神のための働きであれば、休み抜きということもあろうと思われることもあるかもしれない。しかし、そうではない、神はこの日を全く休むように命じている。マルタとマリヤの話を思い出す(ルカ10:40-41)。イエスは、忙しく接待するマルタの行為を喜んだが、足元に座り耳を傾けるマリヤの態度を評価された。それは、イエスがご自分の話をまず聞いてほしいと願っていた時だったからである。神は、安息日においては、まず私たちを祝福しようと願っておられる。その日は、神の永遠の契約を覚え、神の者であることを覚え、神の恵みに浸り、神のよきことを味わう時である。これがないからこそ、人間は目的を持って仕事をこなしているようでありながら、いつしか仕事に振り回されて、自分を見失い、疲れ果ててしまうことになるのだろう。
 実際には、日曜日に休むことのできない仕事も確かに多い。医師、警察、警備など人命を与る仕事、また今日の経済システムではサービス業もそうである。ただ、イエスは、愛と慈善のわざなど必要なことは安息日に行っても構わないとされた。安息日は人のために造られたのであって、人が安息日を守るために作られたのではないからだ(マルコ2:27)。たとえそうであっても、それは基本的に、自分が神に造られた人間であること、また神に起源を持ち、神の祝福を受けて生きている恵みの時である。早朝でもよい、夜でもよい、あるいは週日のどこかでもよい、公同的に礼拝を守る、神のよき事を味わい神との永遠の契約を覚える時を持つことだ。安息日は、「日」を守るのではなく、「安息」を守ることが大切なのだ。今日教会も色々であるが、少なくとも、玉川の教会は、安息を守ることに重きを置き、教会をイベントや、会議の場にしないようにしたい。

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