士師記11章

士師記11章 エフタの戦い
<要約>
おはようございます。不器用なエフタの戦いは、何か心に響くものがあります。人は見捨てても神は見捨てられない。神は、愛であり、正義であることを思うところです。どんな状況にあれ、神が私たちの思いを超えた導きを与えてくださることを信頼したいものです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.エフタ登場
 士師エフタの活躍について語られる。エフタは「遊女の子」(1節)、「ほかの女の子」(2節)とされる。つまり、彼の母親はイスラエル人ではなく、彼も家族の一員とはみなされていなかった。またアビメレクのように母方の親族に共鳴してくれる者もいなかった。エフタは、家を追い出されてトブの地に住んだ。そこで、「ごろつきが集まって来て、彼といっしょに出歩いた」とされる。いわゆる落後者や社会のはみ出し者たちからなる山賊の頭領となっていた。しかし神はそんなエフタに不名誉の烙印を押したイスラエルの民を救うための使命を与えるのである。
2.エフタの論戦
アモン人がイスラエルに戦争を仕掛けてきたときに、ギルアデの長老たちはエフタを首領として迎える。エフタは、それがあまりにも調子のよいことであることを指摘している(7節)。エフタは、純粋なユダヤ人ではなく、家族からのけ者にされていたが、まことに神を畏れ、神に忠実な神の民であった。エフタはアモン人と戦争をする理由を確認している。その議論から、エフタがイスラエルの歴史に通じていること、つまり旧約聖書をよく読んで理解していたことがよくわかる。つまりそれは、政治的な力関係の議論ではなく、神学的な論争である。また、エフタは、自分ではなく主が戦いに勝利させてくれる確信をもっており、ヘブル書においても、信仰の人として数えられている。
しかしそんなエフタの忠実さや信仰に初めから注目していた者は誰もいなかった。彼はユダヤ社会から見捨てられていたのである。血筋や見かけで追い出されたエフタを、神の民の中に引き戻したのは、神ご自身であった。私たちの神は、ご自身に忠実な者を、社会に埋もれたままにされることはない、様々な出来事を用いて回復させてくださる。
2.エフタの戦い
さて、主の霊がエフタに臨んだ。エフタにも、主の霊はくだされた。しかし、エフタはここで、主に請願をしている。アモン人を征服し、無事帰還した際には、最初に出迎えた者を、主のものとし、全焼のいけにえとしてささげる誓いである。なぜこんな誓いをしたのであろうかと思うところである。エフタは神に忠実であるが故に、自分のことばを取り消すことができず、自分の一人娘をささげなければならない、悲惨な結果を刈り取るのである。
教えられることは、大きな犠牲を払っても、神の前での誓いを取り消さなかった父子の忠実さであろう。約束したことは守らねばならない。「主に対して口を開かれた」ことはそのとおりにしなくてはならない(36節)。この物語は、温情的には決して受け入れられるものではないが、その強調は、主に対する忠実さにある。無器用な父子であれ、神に忠実であったその心は、私たちにとってチャレンジである。ただ一方で、これが軽はずみな誓いであるとは、よく言われることでもある。エフタが、自分の名誉回復のために、この機会を捕らえようとする、切実な状況にあったのだろう。しばしば人は、状況が切迫していればいるほどに、「もし、あなたが助けてくださるなら…私は~をします。」と神に取引を持ちかけてしまうことがある。だが、十字架の恵みにある私たちは、しっかり理解しなくてはいけない。神は取引なしに私たちを祝福してくださるお方であることを。神は恵み豊かであり、神の前にあっては、取引も誓いも不要である。恵み豊かな神に信頼しよう。

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