民数記14章

14章 民の不信,神の怒り→荒野へ
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。イスラエルの民の反逆は頂点に達しました。せっかく神が与えられた、「自分たちよりも大きくて強い国を占領することができる」チャンスを、彼らはその不信仰の故にみすみす逃してしまうのです。求められていることは、ただ、神が与えようとしているものを、信仰をもって受け入れる、より頼む心でした。信仰は目に見えぬことを実現させる力なのです。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

1.頂点に達した反逆
 約束の地は素晴らしかった。しかしイスラエルの民にとって、そこは攻め入って征服するには、あまりにもハードルが高いと思われるものであった。民は、落胆した。エジプトを脱出したものの、もはやここまで、と。いやむしろ、エジプトを出なかった方がよかったのではないか、とすら、嘆き悲しんでいる。エジプトで経験した辛さはどこへ行ったのか、別の指導者を立てて「エジプトに帰ろう」とすら言い始めた。
 そこでモーセとアロンがイスラエル人の会衆の前でひれ伏した、という。モーセとアロンは、神に逆らうことを恐れたのだろう。彼らはミリヤムの事件で、神は生きておられ、正しいことをなされる方であることを重々承知していたのである。
 ヨシュアとカレブが、モーセとアロンの側に立って訴えている。イスラエルの神に従い、神とともに、カナンの地征服のチャレンジを受けて立つように、と(9節)。「自分たちの着物を引き裂いて」というのは、深い悲しみを表す行為である。しかしイスラエルの民は、逆に、彼らを石で撃ち殺そうと反逆の意志を明らかにした。そのとき、主の栄光が神の天幕から全てのイスラエル人に現れたという(10節)。彼らは、モーセやヨシュアと争っているようでありながら、実際には、目に見えない神と争っていたのである。モーセとヨシュアを拒んでいるようでありながら、目に見えない神に反抗していた。神は裁かれた。モーセのとりなしが続くが、神の決定は取り消されない。神に反逆した第一世代は、皆荒野で死に、悪い報告をもたらした偵察隊も疫病で死ぬ、と。神の裁きは即座に実施された。偵察隊の内、ヨシュアとカレブだけが生き残った。
2.イスラエルの罪深さ
イスラエルの民は、神の言葉が確かであることを知った。彼らは神のことばに従おうと心を決めた。しかし、神のみこころはもはやそこにはなかった。モーセは、「とにかく主が言われたところへ上って行ってみよう」(40節)と出て行こうとする民を引き留めた。既に機会は取り去られていた。「それは成功しない。上って行ってはならない。主はあなたがたのうちにおられないのだ。」(42節)決定的なことばである。また主の契約の箱も動かなかった。さらに目の前で十人の偵察隊が主に打たれたにも関わらず、彼らは、山地の峯のほうに登って行った、という。実に不信仰な罪人の姿を象徴している。神のことばに従う勇気がないだけではない。神のことばを信じようとしない、というだけでもない。まさに神の時を待とうとせず、神と心一つになろうとしない罪人の現実がある。このような罪人が救われるのは、大いなる神の恵み以外にはないことを思わされるところである。そういう意味で、イエスの十字架の恵みが明らかに示されているその意味は大きい。
そう言えば、旧約には、幾種類かの契約が出てくる。アダム契約は、メシヤにおける神の救いの計画を予表する意義がある。ノア契約の意義はなんだろうかと思うところがある。しかしこうして考えてみると、ノアの契約は虹の契約であり、神が洪水をもってもはや二度と人類を滅ぼさないと誓われた契約である。それは、人間の罪深さを認めた契約である。となれば、そこには、イエスの十字架の契約の性質、つまり十字架の恵みによりすべての者は救われることの根拠が、示された契約と考えてよいだろう。
ともあれ、出エジプトも、またカナン征服の歩みも、主とともにある信仰によってのみ可能なことにもう一度注目しておこう。神が私たちに勧めていることは、信仰によって成し遂げるべきことであり、私たちが持っている力ですることではない。自分の業績をリストにして、並べ上げるようなことではない。教会を建てあげても、それは私たちの誇りとは決してならないものである。全ては、神があわれみをもって導き、備え、力を与えて、ご自身のご計画としてなさせてくださることを、信仰を持って受け止め、その恵みに与っていくことである。神の御業の一つを今日も担わせていただいていることを感謝し、主にお従いすることとしよう。

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