申命記32章

申命記32章 モーセの歌
皆さんおはようございます。私たちの人生の目的は、神に栄光を帰すことにある。すっかり業界用語、業界フレーズとなったことばですが、実際に意味するところは、皆が天地創造の神の偉大さを認め、崇めるようになる、ということでしょう。神を喜び、神のなさることを大事にし、神に仕えていく、今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
2.モーセの歌(32章)
1)呼びかけと讃美(1-4節)
 モーセの歌と呼ばれる、一章である。これは、約束の地での新しい生活に備えて、モーセによってイスラエルの民に教えられた歌である。それは、神の民を養い育てることばであり、露、小雨、夕立ちのごとくである、と言う。そしてその目的は神に栄光を帰すことにある(3節)。イスラエルを愛する主は真実なのだ(4節)。
2)叱責と恵み(5-18節)
 4-43節全体がモーセの説教となる。まず、真実を尽くす神の前にあって、イスラエルの現実がどんなものであるかが明確に語られる(4-6節)。イスラエルは、真心を持って神の召しに応えるどころか、主に背を向け、恩を仇で返す者たちであった。しかしこれは警告である。そしてむしろ、神がどれほど恵みと祝福をもって彼らを導いて来られたかを思い起こすように、教えている(7-14節)。8節以下はその具体的な内容だ。
 神は人間にその住み着くべき地を備えられた、そして出エジプトと荒野の旅を導かれた。それなのにイスラエルは主の恩を忘れ、背教へと進む(15-18)。これは、後代の作者が、カナンの地におけるイスラエルの民の背信的行為を回顧して述べているのではなく、むしろ、ヘブル詩としては完了形で詠まれている、カナンの地における預言的警告である(18節)。モーセはそういうことが起こらないように、と語り聞かせた。しかしイスラエルの民は、後の歴史が示すように、警告に聞き従わず、悲しむべき偶像礼拝に落ちていったのである。だからその後の民は、これをモーセの律法の一部として、警告として幾度となく読んだのだろう。
天と地をお造りになり、支配しておられる神は、人それぞれを地に住まわせ、決められた時代に生きるようにさせてくださっている。パウロは、それが神の配慮によるものであることを語っている(使徒17:27)。人が神を見出すために、神が定めてくださったそれぞれの人生である。その神の栄光を現すように生きるのが、人間の道なのである。
3)裁きの宣告(19-25節)
 しかし人間の現実はそうではない「ねじれた世代、真実のない子ら」(20節)である。身勝手な人間を、神は黙認しておられるお方ではない。神が御顔を隠すのは、祝福から分離されてしまうことであり、神から見捨てられた存在になることだ(民数6:25-26参照)。
21節は、並行法を用いた詩文であり言葉遊びがある。イスラエルは「神でないもの」で主のねたみを引き起こし、神は「民でない者たち」で、ユダヤ人のねたみを引き起こす。「民でない者たち」が何を意味するのか明確ではないが、ローマ9-11章にある、パウロの議論を思い起こすような記述である。ともあれ、神は、ねじれた世代、真実のない子らに裁きを宣告される。17章では、既に王政に対する定めが預言的に語られていたが、ここも後のアッシリヤやバビロンによるイスラエルの裁きを預言的に語っているようにも思われるところであるが、単純に神に背を向けることへの裁きという一般的原則を明確に語っている、と理解してよいだろう。
4)救いの希望(26-43節)
そして裁かれる神は「殺し、また生かす」方(39節)、「傷つけ、またいやす」方(39節)である。神は裁き主であるが、同時に哀れみ深い方である。いつまでも怒ったままでおられることはない。私たちを救い出そうとされる。今の時代にあっては、イエスの十字架がその証しとされる。神は、私たちにご自分の一人子を遣わし、私たちが主にあって変えられるように導いてくださる。自ら罪の頑なさに躓いたペテロも語っている「(イエスは)自から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため」(1ペテロ2:24)
5)近づくモーセの死(44-52節) 
 内容的に44節は31:30と同じであるが、モーセの後継者となるヌンの子ヨシュアがホセアと呼ばれ(民数13:16)、モーセと同行したとされる。ヨシュアはモーセの歌を身近に耳にしながら、後継者として立てられていく。
ともあれイスラエルの民は、この歌を聞きながら、神の真実さ、神の正しさを覚え、さらには、神の永遠に変わらぬイスラエルの民に対する愛を覚えさせられたに違いない。44-47節はその要約である。歌で教え示したことを心に留め、その子孫にも教え、イスラエルの民の生き方とすべきだ、と力強く語っている。
続いてモーセの死が宣告される(48-52節)。それは神の定めであったが、モーセにとっては自分の使命が終わることを認識し、後継者ヨシュアに大きな期待と信頼を託す機会となったはずだ。モーセがそうであったように、私たちにとっても大切なのは、神のご計画の中で、自分の与えられている位置と責任をたとえそれがどんなに小さく、外面的には人々に知られないようなものであっても、忠実に果たしていくことだ。それがあってこそ、イスラエルの民のカナン定住も可能になった。
モーセは既に神の御教えを露、小雨、夕立にたとえている(2節)。それは、大地を潤し、草花に活力を与え、種に芽を出させ、収穫の実りを豊かにするものだ。同じように、私たちも、神のことばの恵みによって、私たちの霊的な実を豊かに結ぶことになる。神の言葉に従うことによって、神に栄光を帰し、約束された祝福を受け継ぐ者とされる。私たちは種々従うことができない理由を並べ立てがちであるが、素直に、神を認め、神に従うことが私たちの最善なのである。

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