申命記33章

申命記33章 モーセの祝福のことば
皆さんおはようございます。本日は、モーセの祝福のことば。32章と34章の流れからすれば唐突でもあり、モーセ自身によるものではない箇所、つまりヨシュアが書き加えたのではないか、とされる部分です。そこには、主の祝福の関係の中に入れられている、神の民の現実が語られています。主の祝福の中にあることを覚え、今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
3.モーセの祝福のことば(33章)
1)序(33:1-5)
 1節の前置きは、この祝福のことばがモーセの手によるものではないことを示唆している。恐らく、ヨシュアによって書かれたのだろう。またそれは、イスラエル12部族への祝福のことばでありながら、シメオンについては語られていない。いくつか解釈の難点のある章でありながら、全体の構造を見ると、三つに区分される。イスラエルの民全体に対する祝福(2-5節)、各部族に対する祝福(6-25節)、そして再びイスラエルの民に対する祝福となるように(26-29節)。
 「シナイ」「セイル」「パランの山」いずれも、神がご自身の栄光を現してくださった所である。イスラエルの荒野の40年間を振り返り、主が、民を愛してくださっている、と言う。3節、口語訳は、「国々の民」を、単に「民を」と訳している。新改訳では、ヘブル語の複数形を意識したのであろう「もろもろの民を」と訳すが、原語は曖昧で、イスラエルの諸部族とも、イスラエル以外のすべての国民の意味にも取れる。「エシュルン」はイスラエルの別称である。32章にもすでに出てきているが、旧約聖書にはこの章を含めてイザヤ書にあるだけで、全部で4回しか出てこない。「正しい者」「高潔な者」を意味する。これはイスラエルと同義に使われているようでありながら、実際には、ヤコブ、イスラエル、エシュルンと使い分けられていることから、イスラエルの中の神の民について、特に理想的な神の民としての存在を表現している。主はイスラエルの神である。そのイスラエルの特徴は、主の御告げを受けるところ、つまり、絶えず神の御元に集められ、教えられ、従い、その祝福に与る者である(3節)。
2)各部族への祝福の言葉(33:6-25)
 各部族への祝福のことばを見ていこう。ルベンは、存続が困難な中で、部族として守られていく、それが祝福であると言っている。ユダは、常に民の先頭を進む。その民が敵から助けられる、それが祝福であると言う。これはむしろとりなしに近い。本来ならここにシメオンの祝福が入るのだろうが、それは、省かれている。レビの祝福は、まさにその職務を全うすることだ。すなわちトンミムとウリムを用いて神の御旨を伺い(8節)、御教えをイスラエルに教え(10節)、宗教的な儀式をつかさどること(10節)である。牧師の祝福もまた、祈りとみことばに徹することに他ならない。生活手段を持たない部族であればこそ、その働きに徹することによって生活が守られ、恵みが施される。
 ベニヤミンは、ユダと同じく、激しく戦う部族であればこそ、主の守りが祈られる。ヨセフには物的祝福が祈られているようであるが「柴の中におられた方の恵み」とあるようにそれが天の神による祝福であることに注目すべきだ。この世的な繁栄は、主の支配の中にあってのこと、私たちはその現実をよく理解しなくてはならない。ゼブルンとイッサカルは対照的に語られるが、物的な繁栄の中で義のいけにえを捧げる民であることが祝福として語られる。ガドもまた、主の正義と公正を行うことが祝福である。ダンは勇敢であること、ナフタリは主の恵みの中に生き、アシェルも主の恵みに、具体的にオリーブの産出(油)に恵まれることが語られる。
3)結び(33:26ー29)
最後は、賛美で結ばれる。しかし単なる神賛美ではなく、ちょうど序言と考えられる2-5節がそうであったように、ここでも主とイスラエルの民との関係が示されている。主の祝福は、エシュルン、つまり選ばれた神の民が、約束のとおりに約束の地に住まうようになることにあり、主の栄光を証しすることにある。27節、「永遠の腕が下に」は、「下には、永遠の腕」が直訳である。つまり、神の腕が永遠に私たちを支えてくださると言う。人生には底なし沼に陥ったかのように思われることがあっても、神が私たちの足を支えてくださる。神は、私たちが沈むことのないように守ってくださる。大切なのは、神の栄光を現わす祝福の道を選び取って生きることだ。神の義を立てる祝福に心を向け、祝福を選び取っていく、それが主に救われた民の人生である。

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