箴言2章

2章 知恵を深め主を恐れる

おはようございます。昨日は、主を恐れることは知恵の初めであると学びました。今日は、知恵を追及し、学び続けることが、主を正しく恐れる心を育てるものであることを、教えられます。主を愛する心は、聖書を熱心に探究する心に比例し、深まるのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.知恵が先か神が先か

知恵を軽んじることが、どのような結果をもたらすか、それは、災難と恐怖であり(1:26)、滅びである(1:32節)と語られていた。しかし知恵を愛する事の結果は、主を恐れることであり、神を知ることだ、と言う。1章の7節では、「主を恐れることは知識の初め」であると語られていたが、その逆である。知恵に心を傾け、「銀のように、これを探し出し、隠された宝のように探り出すなら」主を恐れることをわきまえ知るようになる、という(5節)。それは上から、恵みによって与えられるものではあっても、棚から牡丹餅のように安易に与えられるものではない。それを得るために、努力を要するものである。確かに、この聖書通読一日一生も、もはや、ブログの形では、17年目となった。旧新約聖書を通読し通すのに、約3年半かかる。第一サイクルの時には、ただひたすら、読んだ感が強い。第二サイクルに入り、再び自分が書いたものを読み返しながら、改めて、聖書を掘り下げて読んでみると、自己流な読みの多いことに気づかされ、かなり修正を加えた。第三サイクルでも同様であったし、第四サイクルにおいても、修正が加えられたところがある。けれどもそのような地味な、掘り下げを行うことで、神様に対する関係も、ことに自分の姿勢が随分と変えられた、と思うところがある。気まぐれな訓練で身に着く技術がないように、気まぐれなディボーションで身に着く霊性もない。朝ごとのディボーションは、霊性を研ぎ澄ます基本である。

2.知恵の効用

9節以降は、神の知恵を求めることの具体的な意味を語る。一つにそれは、正しい理解と良い生活に導くものである(9-11節)。知恵が心にあり、それが喜びとなっていれば、何が正しく、何が間違っているかがわかり、人としての正しい道を進むことができる。

それは言い換えれば、「ねじれごとを語る者」の誘惑や影響から守られることだ(12-15節)。それは、具体的に、泥棒、人殺し、強盗、暴君、高利貸しなどを想定しているのだろう。また、悪い女の誘惑からも守られる(16-19節)。悪い女とは、その本当の悪の性質が、滑らかなことばに隠されてわからない女性のことである。責任感や自制力に乏しい者に対する警告というべきだろう。

21節、「正直な人たちは地に住まいを得。全き人たちは地に生き残る」正しい真面目な人は、国の中に住み続け、悪人が国外に排除される、これは約束として語られる。確かにイスラエルの歴史において、イスラエルは、罪を犯し続けることによりイスラエルの地から追い出され、悔い改めることで再び、彼らは戻ってくることができた(エレミヤ25:5)。神の言葉が生きて働くことを具体的に学ぶなら、神を正しく恐れることも学ぶのである。

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