1歴代誌25章

25章 レビ人の賛美の奉仕

<要約>

おはようございます。レビ人は、いくつかの役割を与えられました。今日は賛美の奉仕です。彼らは、音の調べに合わせて神の言葉を宣言するのです。そのために、達人となる訓練を受けた、とされます。大切なのは、神の臨在を意識した礼拝賛美、ということでしょう。神にささげられる賛美を歌う者でありたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.レビ人の役割:音楽家

すでに、23-24章では、礼拝の再興のために重要な役割を演じる、神殿に仕える祭司たちや、祭司を助けるレビ人について語られてきた。25章からは、さらにレビ人の詳しい役割が語られていく。彼らは、音楽家としての役割を与えられ、その主要三家族アサフ、ヘマンそしてエドトンが紹介される。彼らは、礼拝において楽器を奏でる、声をあげて歌う。ただその中心は、「預言」することであった。音楽を伴う預言、あるいは、音楽に乗せて神の言葉を宣言する、それが彼らの働きだったのである。

2.角を高くあげるをめぐって

ヘマンにおいては、「神の言葉を通して王の角を高く上げる」とされている。このことばは、1サムエル記2章のハンナの祈りに由来するものなのだろう。ハンナはそこで、祈って語っている「主が、ご自分の王に力を与え、主に油注がれた者の角を高く上げてくださいますように(2:10)」角は、ほぼ並行的な関係で「力」と同義に扱われている。確かに、角は動物の力や強さの象徴である。ただ、新改訳2017では、「王の角」と強くされる者について補足がある。新改訳第三版では「角笛を高く上げる」と訳された。新共同訳では、単に原文通り「角」であり、角と訳されたヘブル語のケルンに、誰の角かを示す補足はない。英訳のNIVでは、明らかにその角は、ヘマンの角であり、その訳の印象は、口語訳「これらは皆、神がご自身の約束にしたがって高くされた王の先見者ヘマンの子たちであった。」に近い。文脈は、「主にささげる歌の訓練を受け、みな達人であった」(7節)、というものであり、新改訳2017がヘブル語ケレンの角に「王の」と補足を加えたのは、唐突な印象がある。

3.神の言葉を宣言する

補足については、細かなことであり、よくわからない部分であるが、大切なのは、彼らの働きが、神のことばを調べにあわせて宣言することにあり、そのために訓練を受けて達人の域に達していた点なのだろう。当時の聖歌隊は、男性のみで構成され、神殿の聖所の入り口に向かって賛美するように東の門の内側に並んで歌ったとされる。彼らはまっすぐ神のおられる聖所を見上げ、神に向かって、神のことばを調べに合わせて語り、神の忠実さ、神のことばの確かさを宣言したのである。私たちの礼拝では、司会者と会衆が向かい合って歌うことが多い。あるいは、丸く輪になって歌うことがあったりするだろう。形態は違わざるを得ないとしても、そこで意識されなければならないのは、神の臨在であり、その神にささげる歌を歌う、ということである。そしてそれが神のことばである、というのならば、神のことばの確かさ、神の言葉に対する誠実さを確認し、たたえる歌、その歌に対する注意深さを持つ意識が大事なのだろう。

ピーター・マスターという牧師が、六種類の礼拝を取り上げ、現代のキリスト教会に見られる礼拝の諸問題について指摘している。

1)個人的楽しみの礼拝:礼拝者の楽しみを第一に置くもの。

2)世的特質を持つ礼拝:世の中で流行している娯楽的な音楽を、用いるもの。

3)耽美的な礼拝:管弦楽団や器楽独奏を取り入れて美しさに耽ることを求めるもの。

4)恍惚的な礼拝:きわめて情緒的で、陶酔的な状態になることを求めるもの

5)浅い礼拝:賛美の内容に深さがない、単純な繰り返しをよしとするもの

6)くだけた礼拝:どうでもよい冗談を入れながら、礼拝をお茶の間の雰囲気に代えて、主から尊厳と威厳と移行と栄光をはく奪しているもの。

礼拝賛美は、一番人間的な陶酔が起こりやすい場であるとするならば、やはり、神にその栄誉を帰す注意深さが必要である。達人は、「技芸・学問の奥義に達している人」のことであるから、ある意味で私的感情に流されず、ただ主をほめたたえることにおいて、熟練した人たちだったのである。

4.ヘマンの信仰

詩篇50、73-83篇にはアサフの名が、88篇にはヘマン、39、62、77にはエドトンの名が記されている。ことにヘマンは、預言者サムエルの孫、ヨエルの子である。ヘマンの父ヨエルは、祖父のサムエルとは違って、利得を追い求め、賄賂を取り、さばきを曲げる者であった(1サムエル8:2、3)。にもかかわらず、ヘマンは、祖父サムエルの信仰のスピリットを継承し、霊的な力があり、「王の先見者」(5節)と呼ばれる歩みをした。彼の14人の息子と3人の娘も彼と共に音楽の奉仕に当った(1、4-7節)というのだから、信仰をきちんと継承する確かな歩みをしたと言えるのだろう。

このヘマンについて、4節の、第六子ハナニヤ以下の名前は名前ではない、と言う人もいる。つまり、

ハナヌヤ(私をあわれみ給え、主よ)

ハナニ(私をあわれみ給え)

エリヤタ・ギダルティ(あなたは私のほめたたうる神です)

ロマムティ・エゼル(悩みの時の私の助け手です)

ヨシュベカシャ(私は言います)

マロティ、ホティル、マハジオテ(幻を豊かに与えてください)

と、ヘブル語名の意味をとっていくと、一つの意味のある詩を構成しているからである。しかし、そのように考える必要もないだろう。初期の写本家が、ヘマンの子の名前の中に、このような祈願詩を読み取る可能性を発見して、その目的にそうように手を加えた、と考えられてもいるが、確かなところはわからない。むしろ、神を愛するヘマンが、家族をもって神に仕えることをよしとし、子どもたちに自らの信仰を表す名をつけたとも考えられる。となれば、ヘマンの信念は、困難な中にあっても、神を賛美せよ、というものがあった、ということでもある。信仰は確かに個人的なものであるが、幾代にも及んで親子を通して神に仕えていくことは、信仰の恵みをさらに深め豊かにする。自らも、そして自分の家族、子どもたちも、達人として神の礼拝に仕えることができるように、訓練されるのは、恵みである。

5.奉仕の平等性

なお、ここでも奉仕はくじ引きによる、ことに注意する必要がある。「下の者も上の者も、達人も弟子も」とある。「下の者も上の者」も、というのは、24組の兄弟関係のことだろう。「達人も弟子も」、というのは、何かの教育プログラムがありそれに沿って訓練され、ある水準に達した者と訓練途上にある者がいることを思わせることばである。24組ある聖歌隊のうち、訓練を受け、その訓練到達度には違いがある現実の中で、実際の任務は、年齢や経験によらず用いられる。重要なことである。つまり、神への奉仕は、能力によらず、召しによるという信仰がそこにある。召しがあれば、神はその働きに必要な力は備えられるのである。まさに、モーセが「人に口をつけたのはだれか、誰が口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか。それは、わたし、主ではないか」(出エジプト4:11)と語られたとおりである。こうして、普通の感覚であれば、訓練を受け、研ぎ澄まされた精鋭だけが選び抜かれて、毎回最高の奉仕をするために起用される、というものではないか。しかし、神への奉仕の機会は、あくまでも平等に与えられる。主の召しを認めていく、そして主の召しに敬意をもって仕えていき、ただ主をたたえるところにおいて、一致し、主にお仕えすることが重要なのである。

 

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