1歴代誌5章

5章

<要約>

おはようございます。イスラエル北王国の領土に住んだ、ルベン、ガド、マナセの系図が記されています。この系図の中に光エピソードは、彼らが神の御心を損なうことを行ったとしても、神に拠り頼んだ時に、神がこれを応えられたことでしょう。彼らはその頑なな偶像崇拝のために、やがてアッシリヤに滅ぼされることになるのですが、神は悔い改め、呼び求める者を拒まれないのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.ルベンの部族

この章では、長子ルベン(1-10節)、ガド(11-17節)、マナセ(23-26節)つまり、カナン入植前にいち早くヨルダン川東側に、嗣業の地を定めた部族の系譜が記録される。

まずルベンは、12兄弟の長子であったが、その長子の権利を失った理由が説明されている(1節)。彼は父の寝床を汚した、と。当時、そばめとの姦通は、父の財産を要求することと同じであり、親の祝福を失う当然の理由であった。しかしながら、著者の関心は、ルベンはそのような失敗を犯したが、長子の権利は、南側のユダではなく、北側のヨセフの子(エフライムとマナセ)に与えられたことに向けることにある。ヨセフは、ルベンと同様、イスラエル北王国に属する部族であったが、エフライムとマナセ、二部族分の嗣業の地を受け継いだのであり、いわゆる長子の権利としての二倍の祝福を受けた部族である。長子の権利は北側の王国に与えられた特権だったのである。

だが6節、「アッシリヤの王ティグラテ・ピレセルが引いていった」とあるように、彼らはアッシリヤの時代に滅ぼされている。系図は複雑で、どうやら順序が一部逆になっている。3-6節が歴史的には後に来て、7-10節が先のようだ。

2.ガドの系図

次に、ガドの系図について言えば、民数記26:15-18に取り上げられた系図とは一致していない。省略されている部分がある。この系図を読み進めていく時に教えられることは、ヤベツやシメオン部族のエピソードにも通じることであるが、神はご自身の民を運命論的に扱うお方ではない、ということだ。ルベン族も父の寝床を汚して長子の権利を失う失態を犯していながら、神は、その後奮起して戦うルベン族を助け、祝福を注ぎ、その繁栄を守られたことがわかるからである(9,10節)。こうした小さなエピソードに、当時の人々は、神に対する希望を抱いたことだろう。

実際、18-22節には、彼らが神に拠り頼んだことによって神が彼らを助けたエピソードが記録される。大切なのは、彼らが「戦いの訓練を受けた勇者たち」(18節)であるが、神に拠り頼んだという点である。訓練を受けていながら、その訓練の成果ではなく、神に拠り頼んだために勝利した点にある。自分の技術、力量に奢らない低き心があったということだろう。また「神は彼らの願いを聞き入れられた」とあるが、「聞き入れられた」と訳されたヘブル語は、アーサルであり、礼拝者としての祈りが聞かれたことを意味する。つまり、彼らは、カナン征服の初期には、神に心から礼拝を捧げる者たちであった。それが、やがて、神を捨て去り、偶像礼拝に陥り、捕囚を迎えることになったのだ。

3.マナセの系図

23-26節のマナセの系図は、まさに、神を捨て去った結果を明確にしている。彼らは、神の信頼を裏切り、偶像崇拝に陥ったがゆえに、アッシリヤに滅ぼされ、その嗣業の地を取り上げられたことが記されている。

神の民の礼拝をテーマに書き連ねていく、歴代誌の著者にとって、後世に語り伝えるべき教訓として、これは特筆せざるを得ないことであった。彼らは神を礼拝する民として約束の地を征服したのであり、約束の地に住み続けた。つまり、イスラエルは、神を礼拝することから離れては存在することができない、ユニークな民族的アイデンティティを持っている。今日のクリスチャンも同じである。私たちは、神を礼拝することから離れては存在することができない。私たちとそうでない人の生き方を区別するものは、神を礼拝することの一点にある。だから彼らが神を礼拝することを止めた時に、彼らは、神の祝福の嗣業の地から退けられていくのである。また、ルベンは失敗したが、奮起し、神を求めた時に、神はこれを祝された。残された民に対する教訓である。残されるのは、人間的優秀さの故でも、運の良さでもない。神を認め、神への礼拝を中心とするかにある。礼拝を大事にしていきたいものである。

 

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