2サムエル記24章

24章 ダビデの人口調査
<要約>
おはようございます。今日でサムエル記を読み終わりますね。これでまた一書完読です。読み切れなかった人も、どうぞ気落ちせずに、また列王記にチャレンジしましょう。絶えずみ言葉に触れ、前向きに取り組み、聖書の世界の面白さを知っていけば、聖書通読は続いていくものです。今日は、サムエル記を読み終わるにあたり、申命記的歴史としてのサムエル記、つまり申命記の精神に照らして、振り返ることを忘れないようにしましょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.試みられたダビデ
 24章を読み不可解なのは、人口登録を促されたのは神であるのに、なぜ神が、それを実行したダビデに怒りを燃やされたのか、である。これは、1歴代誌21章を参照することによって、解決する。そこでは、「さて、再び【主】の怒りがイスラエルに対して燃え上がり、ダビデをそそのかして、彼らに向かわせた。」(21:1)とある。ちょうどサタンが神の許しの中で、ヨブを試みたように、サタンの行為は、神の計画のうちにあることが直接的に示されていると考えてよい。
 ダビデが良心の咎めを感じたのは、そのようにサタンに唆されて、国の繁栄を自らの業績であるかのように思うような人口登録をしたからである。それは、客観的に国家戦力を把握するというよりも、ダビデの優越感を満たそうとする行為だった。神は、悔い改めるダビデに三つの選択肢を与えられる。七年間飢饉があること、三か月逃亡者となること、そして3日間疫病が蔓延することである。ダビデは、人の手には陥りたくない、主の手に陥ることにしよう、と答えている。これは選択を神にゆだねたというよりも、明らかに逃亡者となることを拒否している。ダビデが選んだのは、飢饉か疫病である。そして飢饉は、蓄えのある富める者に有利であるということから、ダビデは疫病を選んだとされる。
 いずれにしても、神が打たれたのは、ダビデのプライドであった。ダビデがどんなに戦略を誇っても、それは、7年の飢饉、あるいはわずか三日の疫病と、自らの力の限界を思い知らされる思わぬ状況にさらされる。どんなに自らの権力を誇っても、アブシャロムに追われたように、一夜にして権力の座から降ろされるのである。そういう意味で、2サムエル記最後の章は、ダビデの栄光が、まったく神に依存していたことを教えている。申命記に示されるように、王たる者がどうあらねばならぬかを、11-23章のダビデの生涯を通して学ぶのであるし、その最後に、王たる者の王権は、神に依存しているエピソードをもって閉じられるのである。こうしてサムエル記を読み終えてみると、私たちは、ダビデに焦点を当ててはならず、イスラエルを導かれた神の物語としてこれを読まなくてはならないことに気づかされていく。主役はダビデではなく神である。神が、王を起こし、王を降ろされるのである。私たちの栄光は、まったく神の守りとあわれみによるものであり、いつでも神に返さなくてはならないものである。サウルにはそのように思う私たちも、ダビデにはそう思わずに、神以上にダビデに関心を持ってしまうのが、私たちのゆがみなのであろう。そういう意味で、申命記をよく理解しなければ、申命記の精神を良く叩き込まなければ、歴史書は、正しく読むことができない。 
2.神の裁き
ただ、ここで脱線して、ダビデの思い上がりに対する神のしうちを考えるなら、それは、なかなか厳しいようにも思われる。罪とそれに対応する刑罰を比較衡量するときに、それらはどうも釣り合わない。しかしそれは、罪の重さを人間的な目から見ようとするためなのだろう。神は心を見られるお方であり、私たちが本来目指すべき聖さは、しみやしわや傷のない心である。罪の深さを理解する力が乏しい。これもまた問題である。
ダビデは自らの罪の後始末の方法を教えられている。祭壇を築きなさいと命じられる。疫病は、祭壇を築き、いけにえをささげ、神の怒りを宥めたことによって終わったのではない。それは、神の一方的な思い直しと憐れみにより、ダビデの行為によらずに終わったのである。しかし、神は、そのあわれみと恵みを確かに認め受ける方法として、祭壇を築き、全焼のいけにえをささげるように命じた。
 だからダビデは、自らの自覚のために、お金をもってそれを購入したのだろう。ダビデは言う。「費用もかけずに、私の神、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。」主の計り知れないあわれみを思えばこそ、そこに、自らも犠牲を払おうという気持ちが出て来る。ただ乗りで物事をなそうという気持ちにはならないものだろう。
 そういう意味では、神の恵みを豊かに表すキリストの十字架を正しく理解していく時に私たちの人生は本当に変わらざるを得ない。キリストが自分のために、苦しんでくださったために私たちの罪は赦されていることを考える時に、私たちはもはや放縦を続けることなどありえず、そこに何かしら、自己を律する歩みが出てくるものだろう。神が犠牲を払ってくださったのに、私自身が犠牲を払わずに、生きることはできないのである。
真に赦された歩みは、神の恵みを正しく受け止め、その聖さに歩む恵みをただで受け続けようという怠惰さからも解放される。神の恵みを大事にする心と歩みを導いていただくこととしよう。

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