2サムエル記6章

6章 主の契約の箱
 <要約>
おはようございます。ダビデが王となり最も最初に行ったことは、首都エルサレムを、主の都とすべく、主の箱を運び上ったことでした。そこにダビデが何を大事にしたかが象徴的に語られています。そして、その事件に際して、打たれたウザとまた、その交わりに入ろうとしなかったミカルが、またキリスト者の姿の一面を象徴していると言えるでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.主の箱を求める
 ダビデは、エルサレムを首都と定めるや否や、ここが主をあがめ、礼拝される場所となることを目指した。つまりここに神の臨在を求めたのであり、まず主の箱をエルサレムに取り戻そうとする。
 主の箱は、生ける神の臨在の象徴であった。神が主の箱とともに約束されたのは、「わたしはそこであなたと会見し、・・・あなたに語ろう」(出エジプト25:22)である。しかし、約70年にわたり、主の箱は、本来あるべき場所から失われていた。それは一度ペリシテ人の分捕り物となったが、災いをもたらすものとなったので、忌み嫌われイスラエルに送り返えされていた。そして数十年の間、ユダの国境のアビナダブの家に放置され忘れられていたのである。しかし、今やエルサレムを世界の中心、神の栄光が満ちる場所と定めるにあたり、そこにこそ、「主が会見し、主が語られる」しるしである主の箱が存在しなくては、ならない、というわけである。
もちろん、今日、神の臨在を象徴するような、主の箱はない。むしろイエスは「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)と語り、象徴的な神の箱があるなしに関わらず、神が共におられることを明らかにしておられる。
2.主の箱を運ぶ
さて、ダビデの動機は正しかったが、主の箱を運ぶ方法において問題が生じた。神の箱を運び上ろうとした時に、彼らは神の箱を新しい車に載せて、移動させていた。そしてナコンの打ち場まで来たとき、牛がそれをひっくり返しそうになったというので、ウザが神の箱に手を伸ばしてそれを押さえたところ、主の怒りが、ウザに向かって燃え上がり、その不敬の罪のために、彼はその場で打たれ、死んだとされる。何とも理解しがたい出来事である。
ウザは、アフヨと共に、神の箱があったとされるアビナダブの家の子である。アフヨが箱の前を、ウザが箱の後をついていったのであろう。そして、ウザが、主の箱に手を伸ばしたことで打たれたのである。これをどう考えるか。主の箱を運ぶように命じたのは、ダビデであるが、主の箱を正しく運ばなかったことにおいての責任はウザに帰されたのである。それは彼らが長年、主の箱を管理していたにも関わらず、箱がどのように運ばれるべきかについて、正しい知識を持っていなかった、ことのためなのだろう。となれば聖なるものを軽々しく手で押さえた、という一瞬の出来事によって裁かれたのではなく、聖なるものを聖なるものとして扱うことにおいて無頓着であった、という問題の故に裁かれたのである。新約的な感覚で言えば、「年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要がある」(ヘブル5:12)つまり信仰の何であるかを深めようとしない信仰のあり方の問題でもある。
この事件を通してダビデは、3ヶ月、自らの過ちを祈り考えていたようである。ダビデは神と対話し、自分が何を知らねばならないのかを悟ろうとした。そして彼が理解したのは、神の箱が作られた時に、それがどのように運ばれたかであった。ダビデは、自分がよいと思う方法ではなく、主が定めた方法、つまりモーセの教えに従って主の箱を運ぶことにした。牛車ではなく人が担いで運ぶ方法に従った。ダビデがこれによって、聖書の探求と教育に熱心になったであろうことは想像に難くない。
ともあれ主の臨在を味わうには、主の定めた方法がある。今日、私たちが理解を深めなければならない、神に近づく正しい方法は、キリストの血によって近づくことである。キリストの十字架のもとに、悔い改めと信仰をもって、近づく時に、私たちは神の祝福と愛を持って迎えられる。キリストを抜きに神に近づくことはできない。そして正しき方法で神に近づいたならば、神の祝福を大いに期待すべきである。
3.ミカルとダビデ
 再びダビデは主の箱を運び上り、主を心から崇めた。ダビデは主の前で力の限り踊ったとされる。おそらく古代の儀式の舞いを用いたのであろうと考えられている。また、ダビデは、王服を脱ぎ、亜麻布のエポデを着たとする。彼は、神の箱を運び上るにあたり、主の祭司として神の前に立ったのである。それは、ダビデが、この点において単なる真剣さと熱心さだけではだめで、主の方法に従うことが必須であると考えたからであろう。またそれは、ダビデが長年主の素晴らしい守りを味わい、深い交わりを保ってきた主との関係を象徴するものであった。
しかし、ミカルはそれを「裸」で踊ったと見なした。ミカルは、ダビデがそのように神を敬うのを、心の中でさげすんだと言うべきだろう。ミカルに、王としての超然とした立場を捨てて、民衆と交わり主を礼拝するダビデなど興味はなかった。彼女は、勇敢な戦士であるダビデを愛していたのである。彼女の心はサウル同様に、神を敬う心はなかった。
ダビデはこの時、詩篇132篇を書いたと言われる。ダビデは、設置された主の箱の前に、まず「主よ。ダビデのために、彼の全ての苦しみを思い出してください」と祈っている。神の臨在は、神の祝福の宣言そのものである。神は私たちが思う以上に恵み豊かな方であり、私たちに対して定められた永遠の約束を反故にすることはない。私たちの敵に恥を着せ、私たちの上に光り輝く冠をかぶらせる。正しい方法で、つまりキリストとみことばにより神に近づくならば、大いに主の祝福を期待することができる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です