2サムエル記5章

5章 ダビデ王となる
 <要約>
おはようございます。ダビデの王としての歩みが始まりました。その歩みの特徴は、本章に見るように、神に密着した歩み、日々一瞬一瞬主に寄り頼むものです。それは、サウルが王になった時の歩みと対比されるものです。日々、主に祈り主の助けを求めて、主のことばに従い歩む、今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.ダビデ王となる
 ダビデが王となった。イスラエルの全部族は、ダビデのもとに来て、ダビデが王であることを確認した(1,2節)。ダビデはユダのみならずイスラエルからも王として認められるようになった。
そこでまずダビデがしたことは、エルサレムに来て、「シオンの要害を攻め取った」ことである。戦略的な町エルサレムは、長くイスラエルの強敵エブス人が支配していた。ベニヤミン族は、彼らと平和共存する形でエルサレムに定住したのである(士師1:8-21)。しかし、ダビデは王となり、まず、この強敵を追い払った。こうして、ダビデは「ますます大いなる者となった」(5:10)。それは万群の神主が彼と共におられたからである。こうしてヘブロンでの7年6か月の統治が終わり、エルサレムでの33年間の統治が始まる。
2.新たな挑戦
 さて、そのように力を増し加えるダビデではあったが、ダビデはさらに新しい挑戦を受けていく。「ペリシテ人はみな、ダビデをねらって上ってきた」とある。彼らは「レファイムの谷間に展開した」(18節)とあるように、まさにエルサレムの城壁の下に、ダビデを潰す勢いでやってきたのである。王権が確立したばかりであるというのに、これを叩き潰そうとする、ペリシテの脅威があった。彼らはサウルとヨナタンを討ち滅ぼしたように、ダビデを滅ぼそうとしていた。 
そこで、ダビデはまず、「主に伺って言った」(19,23節)。今の私たちのあり方からすればそれは祈りそのものである。ダビデはすぐにひざまずいて、神の知恵と助けを祈り求めた。神は答えられた「上れ。わたしは必ず、ペリシテ人をあなたの手に渡すから。」(19節)と。ダビデが上ると、「主は、水が破れ出るように、私の前で私の敵を破られた。」という。そこでダビデはそこをベアル・ペラツィムと呼んだ。つまり、「突破の主」という意味である。突破口を開くのは、まさに神ご自身である。水が破れ出るように、私たちを助けてくださる主を覚え、主に呼び求めてダビデは勝利した。。
しかしながら、ペリシテ人はさらに執拗にダビデを狙い、再び攻めてきて、レファイムの谷間に展開した、という。ダビデは再び神に祈った。初め「上れ」と命じられた主は、次には「上っていくな」と命じられる。つまり神は一度目と二度目とでは全く逆に答えられた。もしダビデが一度祈ったからと、今日の戦いのために、昨日の勝利の戦略を用いたとしたら、その結果は散々たるものであったことだろう。昨日の勝利は今日の勝利を保証するものではない。ダビデは一瞬一瞬神の知恵をいただき、日々神の力をいただいて勝利を重ねたのである。
3.日々、一瞬一瞬主に寄り頼む
 確かに、人生勝利の秘訣は、日々、一瞬一瞬神に寄り頼んで生きることにあるだろう。というのも、私たちが信仰を持った時に、私たちは新生したとされるが、私たちの罪の性質は頑なに残っている。そして、ペリシテ人が、まさにダビデの足下に展開したように、私たちの古い罪の性質を直接刺激し、神から引き離して、敗北を与えようとするサタンは執拗である。
そのような状況にあって、私たちが人生において霊的な勝利を得られるのは、神が私たちのために霊的な力を注ぎ、私たちのために戦ってくださるからである。私たちが信仰を持つことで大きく変わることは、「万群の神、主が私たちとともにおられる」ようになることである。だから私たちはことある毎に、祈り、神の導きのもとに人生を歩むわけであるし、神はそのような私たちに「上れ」と命じて、即座に私たちの力を発揮するように示されると同時に「上っていくな。バルサム樹の林の上から行進の音」が聞こえるまで待て」とも逆のことを命じられることがある(ヨブ33:14)。一瞬一瞬神に祈り、神の戦略を聞き、神の力を受け、神と共に立つことが大切なのだ。主の聖霊の力を、日々、受けていこう。今日も、主の力に支えられて、主の業をなさせていただこう。

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