2歴代誌11章

11章 レハブアムの強さ

<要約>

おはようございます。分裂王国時代の分裂そのものが、慰めのメッセージとなるのは、興味深いところでしょう。この記事を読んだ、捕囚帰還の民の気持ちになって読んでみると、確かに、分裂し、縮小した国に、神が配慮してくださること、またその誠実さを覚えるならば、大いなる慰めがあるというものです。今日も主の配慮、主の誠実さを覚えて歩ませていただきましょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.意図せざる結果

先に述べたように、イスラエルは分裂した。そこでレハブアムは、イスラエルの北部を取り戻そうと18万の選抜戦闘員を招集する。しかし、神の人シェマヤに主のことばがあり、戦闘中止を勧められると、レハブアムはこれに素直に従っていく。選抜戦闘員を解散させ、行軍を中止し、引き返している。それまでは神の言葉に耳を貸すこともなく、人の助言に従ったレハブアムであったのだが、若者の甘言に従ってイスラエルを失った、大きな代償は、彼に諭を与えたのかもしれない。ただイスラエルの分裂は、「わたしがこうなるようにしむけたのだ」(4節)とあるように、彼の愚かさの故というよりも、神のみこころとして起こった、ことを心に留めておきたい。

一方、北のイスラエルの首長ヤロブアムは、イスラエルに住む祭司やレビ人を解任しているが、それは、北側に住む者たちが巡礼のために南側のエルサレムに上って行かせないようにするためであった。そして、国の体制を固めるために、彼らに代わって雄やぎや子牛を拝ませる偶像崇拝のための祭司が、一般の人々の中から任命された。その結果、真に主に仕えようとする祭司やレビ人は、偶像崇拝を避けて南側のユダの町へと移り住んで行った。また、彼らに続いて、「イスラエルの全部族の中から、その心をささげてイスラエルの神、主を尋ね求める者たちが、その父祖の神、主にいけにえをささげるためエルサレムに出て来た」(16節)とある。こうして南側のユダには、北側に比べて宗教的な純粋さを求める者たちが集められるようになった。

神のみこころはここにあった。つまり、王国の分裂は、単なる地理的・民族的な分離ではなく、宗教的な分離となった。一つの国が二つに分かれ、一方の国に、純粋に主に従おうとする者たちが集まるようになった。歴代誌の著者は、ただ単に、ユダの王レハブアムの愚かさとその結果を描いているのではない。彼の関心は、神のご計画を描きだすことである。レハブアムの愚かさが主を礼拝する真のイスラエルを選り分ける結果ともなったことを示すことにある。

2.国は強くされた

レハブアムが建設した町の一覧が示される。レハブアムは賢く事を行った。彼は防備の町を固め(5-10)、備蓄品を蓄え、子孫を増やし、身内で国の中枢を固めていった。確かに彼は、策略的に行動した。しかし、イスラエルの国が堅固にされたのは、そんなレハブアムの戦略によるものではなく、レハブアムの元に集まり、彼を支持した者たちの行動による(11:4、13、16、17)。不思議なことに、レハブアムは国を分裂させ、国を大幅に縮小させる大失敗をしでかしたが、彼が悔い改めて神に従った時に、神はその結果をさらによい結果へと導かれた。宗教的にはより純粋な国家として彼の国を再生させたのである。

人間的な目で見れば、国が分裂し、縮小する、それを神が仕向けられたのだというのは、どうも神の裁きを考えざるを得ない。しかし、神は良いことをすれば祝福し、悪いことをすれば裁かれるという単純な方ではない。裁きの結果についても配慮を示してくださるお方である。レハブアムが神に従った時に、彼が思う以上の、人間の移動があった。そして彼の戦略も実を結んだ。ここに学ぶべきなのだろう。

捕囚から帰ってきた民は、改めて自分たちがユダ族を中心とし、かつての栄光からさらに縮小している現実を感じていたはずである。しかし、このレハブアムのエピソードは、やはり彼らを力づけたに違いない。たとえ小さくなる現実があろうとも、そこには、神の御心にかなう者たちが集められていると見るべきだろう。そして、神に従う時に、失敗はただの失敗では終わらない。常に神は私たちの思いを超えた御業をなさるお方である、という望みを抱くのである。

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