2歴代誌8章

8章 ソロモンの祝された事業

<要約>

おはようございます。今日も神の御前に生きることを覚えて歩みたいものです。誰が評価してくれるわけでもない、誰が支持してくれるわけでもない、としても、ただ隠れたところで見ておられる神の御前に恥ずかしくない歩みをしたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.知恵を尽くすこと

ソロモンは、20年かけて主の宮と自分の宮殿を建てあげた。それは、確かに偉大な事業であった。1-6節は、それに平行して行われた諸事業が記録されている。それは、「建てたいと切に願っていたものすべてを彼は建設した」ということばに要約される。しかしその中に、注目されるのは、ヒラムが何の得にもならないと突き返した土地を引き取って、これらの町々を建て直した点である。もともとこの町は、国境の調整のために、ヒラムと売買取引したものであったと思われる(1列王記9章)。だがヒラムが気に入らず、突き返したこの町々を、ソロモンは拾い上げ、建て上げてイスラエル人を住まわせた、というわけである。ソロモンは、物事を無駄にしなかった。彼は、利用価値を追及したのである。そのような意味では、捕囚帰還後の民も、何の利用価値もないと思われる、廃墟にたたずみながら、それを建て直すことが自分たちの将来を築くであろうと考えさせられたことだろう。今は、無意味である。しかし、やがてそれは、利用価値が出てくるということがある。物事を諦めて投げ出すのは、知恵が無いことを証明している。どんな時にも、物事を活かす者となるように、神に知恵が豊かに与えられるよう願い求めたいところだろう。

2.霊的な価値を明らかにすること

また、ソロモンは、イスラエル人と非イスラエル人を区別している。否、神を信じる民とそうでない者を区別し、自らと精神を同じくする者を指導者の地位に据え、そうでない者を苦役に徴用したと言う。価値観を異にする者とは、一緒になれないことは確かであるが、捕囚帰還後の民にとっては、神の民としてのアイデンティティを築くためには、重要な考え方を学ぶところだったのではないか。ネヘミヤは、安息日を聖なるものとするための戦いをしている(ネヘミヤ記13章)。そのような意味で、教会も霊的な価値や精神を共有していく共同体であれば、どこに、立つかという旗印を明らかにする必要がある。使命の共有と共同体観の共有が重要である。教会というのは、ただ良い人が集まっているわけではない。ただ、優しさを振りまいているのではない。神の民として、神を崇め、神を第一とする人たちが神の恵みを受けに集まってくる場なのである。

3.神の御前に生きること

さてソロモンは、玄関の前に建てた主の祭壇の上に、主ための全焼のいけにえをささげた、と言う。つまり、モーセの命令どおりに、毎日の日課により、これをささげ、安息日ごとに、新月の祭りごとに、これをささげたと言う(12節)。ソロモンが神に従った歩みをしているのは、誰の目にも明らかであった。しかし、ソロモンの私生活は、また異なっている。ソロモンは、パロの娘を妻とし、彼女のために家を建てて住まわせている。この点に関して、ソロモンは明らかに神のこと、いわゆる敬虔な生活については何も考えていない。むしろ、国家間の政治的なお付き合いを考えている。こうしたダブルスタンダードな生き方が、その後のソロモンの歩みをゆがめていくことになったのだろう。

重要なのは、いつでも神の前に生きていることを意識することだ。神の前にあって、神のまなざしにさらされて生きていることを覚えることだ。人前での評判よりも、心を見られる神の評価の中で生きていることを覚える、これが私たちの真実な歩みを導くものになる。ソロモンは、毎日の日課として、宗教的な歩みをするように人々に命じた。確かに、毎日根気強く、その習慣が守られることは大事なことではあり、証となることであるが、大切なのは、神の前でその習慣が守られることだ。見せかけではない神と四つ手を組んだ確かな歩みが、求められている。今日も神と共に、誰の評価でもなく、神の評価の中で歩ませていただこう。

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