9篇 望みは失せない
<要約>
おはようございます。詩篇は、断片的に、気に入ったことばを記憶するかのように、読んでいる方々は多いでしょう。しかし、1篇全体を、著者のリズムで、著者の生活時間の広がりに浸るように読むことも大切です。そこに思わぬ感動、確信が生じるところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.背景
この詩篇は、ヘブル語で読むと、各節の最初の読み出しがアルファベット順になっている技巧的なものであることがわかる。この他119篇もそうであるが、詩篇にはこのようなアルファベット詩、つまりいろは歌が25、34、111、112篇と、いくつか散見される。このような技法は、主として記憶を助ける目的で使われるので、ある意味で、重要な内容を伝えていると受け止めてよいのだろう。後で述べることであるが、この技法に着目すると、この詩篇は、10篇とセットで読まれるものである。
さて、「ムテ・ラベン」は通常「むすこの死によせて」と訳される。しかしそうなるとどうもこの詩に見られる賛美の調子にはそぐわない。そこで、このヘブル語を「闘士の死によせて」と読み替え、元来8章の続き考える説がある。そうすれば、「あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました」(8:2)というのは、ダビデが闘士ゴリアテを打ち殺した際のこと、と理解され(1サムエル17:33,42)、それを祝って付け加えられた詩と考えられるわけである。となれば、この詩に表題はない。
また「ムテ・ラベン」を「アラモテ・ラベン」と読み替えれば、「おとめたちに合わせて」という意味になり、神殿の合唱隊であればボーイソプラノのこと、つまり、高い音程の楽器による歌ということになる。
確かなところはわかっていないが、この詩は、その初めから賛美と喜びに満ちた書きだしになっている。神のくすしい業によって引き起こされた深い喜びが語られている(1-6節)。それは、ダビデの戦いの勝利によるものなのだろう。しかし、既に8章で述べたように、8章は、ダビデの経験以上のものを語るメシヤ詩篇となっていることからすれば、それは、8章の続きとして、メシヤの完全な勝利を伝えるものと理解されもするし、否、新たに、表題を立てて、9、10篇と続く記憶すべきメシヤ預言的ないろは歌として綴られたとも理解できる。
2.勝利について
さてダビデにしろ、メシヤにしろ、その勝利は個人的なものではない。国家的なものであり、神の支配が世界的に示されるような偉大な出来事である。「主は義によって世界をさばき、公正をもってもろもろの国民をさばかれる」(8節)しばしば私たちは信仰を非常に個人的なこと、自分を取り巻く小さな世界で考えやすい。しかし、信仰は、私的効果を超えた、公的な効果を持つものである。それは個人の知識や経験を潤すもののみならず、社会的なインパクトを持つものである。実際、神の支配は世界に及ぶもので、神は私たち個人の神ではなく、世界の神であることを弁え知らなくてはならない。神を偉大なる、天と地の神としてはっきりと意識できるか否かは極めて重要である。その神が、私たちを見捨てられないと語るのである(12節)。
今やこのことばは、イエスの十字架の死により、確実なものとされた。ヨブも語っていたように(ヨブ10:16)、本来、私たちは、神の主権に服するほかはなく、神に見捨てられたらそれで終わりであった。しかし、イエスが私たちの身代わりとなってその責めを受け、十字架で死んでくださったことにより、私たちに対する神ののろいは取り去られたのである。偉大な十字架の真理の故に、私たちは、確信をもって神は「貧しい者の叫びをお忘れにならない」と語ることができるのだ。
だから、確信をもって今日も祈りをささげよう。「主よ。私をあわれんでください。私を憎む者から来る私の苦しみをご覧ください。死の門から私を引き上げてくださる方よ、」(13節)と切に自分の心の内を神に打ち明けよう。神に自分の思いを打ち明け、神のあわれみを深く請うことにしよう。私たちの抱える問題が、根深いものであり、解決しにくいものであるのであれば、なおさらのこと「神のあわれみ」を切に祈り求めよう。「貧しい者は決して忘れられない。苦しむ者の望みは、永遠に失せることがない」(18節)と信仰に立って、必要を書き出して祈るととしよう。
なお、ヒガヨンについて、ルターは「間奏」と訳している。語源的に「思う」「うめく」などの意味を持っているが、ここにヒガヨンと付された意味と機能は、実際にはよくわかっていない。またセラは、語源的には「上げる」という意味があり、これも「間奏」を意味するとも、「音楽的休止」を意味するとも議論されている。いずれにせよ、この詩篇が勝利の歌であるとするならば、16節、20節は、それぞれ感極まる瞬間として読まれたとも考えられる。実際に「主はご自身を知らしめさばきを行われた。悪しき者は自分の手で作った罠にかかった」と詩を朗読し間奏を入れ、その意味をめぐらし、17、18と読むなら、感動が広がる。詩も読む時には、自分のペースではない、ヘブル語の、著者のペースがあるというべきだろう。現代のせかせかした合理化の時代で作られたものではない、有り余る時間を潰すかのように生きる古代の作である。少し、ゆっくり、巡らしながら味わいたいところではないか。