3章 内にあるものが問われる
おはようございます。南ユダの指導者と宗教家に対する神のことばが語られます。彼らが何を大事にして動いているのか、そこを見ながら、ついて行くべき人を見極めるべきです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.指導者と偽預言者の罪
ミカは、三つのメッセージを語っています。一つは、指導者に対してです(1-4節)。指導者たちは、野獣が獲物をむさぼるように国民を残虐に扱いました(3節)。それはまさに全を憎んで悪を愛するごとしです。本来指導者は、国民を守るべき者でしょう。国民に仕え、奉仕し、正義を守り、公儀を行う者です。しかし、その権力を乱用し、私腹を肥やすのであれば、彼らが窮地に陥った時に、神が、彼らの叫びに応えることはない、それは当然のことでしょう(4節)。「顔を隠す」は、聖書特有の言い回しで、恵みと祝福をもはや注がれないことを意味します。神は、彼らの行いに応じる、というわけです。
第二に、偽預言者に対して(5-7節)。彼らは正しく神のことばを語る者ではなく、富める者たちに迎合して語る者でした。「かむ物が歯にあれば」とは、先の指導者たちの野獣のようなイメージに重ねて、自分たちに獲物があれば、つまり利益になるものがあれば「平和があるように」と祝福を語りますが、そうでなければ、「聖戦を布告する」つまり神の呪いを宣告し恐怖を与えようとする、ということでしょう。何ともあさましい、宗教は地上の金儲けの手段に過ぎないのです。基本的に彼らは、神のことばの何であるかを知りません。7節「口ひげをおおう」は、当時の人々の習慣を物語る表現で、悲しみや恥を感じた時口ひげをおおうところから来たものです(レビ13:45、エゼキエル24:17)。偽預言者は、語るべき時に、語るべきものを持たないのです。しかし、真に神から遣わされた預言者は、「力と、公正と勇気とに満ち」(8節)、闇の時代にあって必要なことを語ります。つまり、人々に神を指し示し、その神に背を向けている罪の現実を語ることを恐れません。それは単純な批判ではなく、主の霊によって語られるものです。真に罪を指摘し、罪の赦しを語ることは、確かに上からの業なのです。
2.指導者たちへのことば
ミカは、まとめて言います(9-12節)。政治上、あるいは宗教上の指導者たるもの、まずは、公正と正しさを守らなくてはなりません。しかし現実は、そうではない、と。神の律法に基づいて、義の国を建てるのではなく、「血を流し」つまり重税と借金の過酷な取り立てによって、さらに「不正を行って」、つまり神の律法を破ってわいろによって町を建てていると言います。金がモノを言う、金がすべての社会です(11節)。もちろん必要なお金は回らなくてはなりませんし、牧会者の生活はしっかり支えられなくてはならないでしょう。しかし、金づるに吹かれて動く風見鶏のような指導者を見たら、異端に気を付けるにも増して、警戒し、距離を置くべきです。そこにあるのは神のさばきであって神のことばではありません。12節は、1世紀後、預言者エレミヤによって引用され(エレミヤ26:18)ヒゼキヤの宗教改革のきっかけとなったことばです。大事にすべきは神の力と公正です。