5章 メシヤの到来
おはようございます。「まず魁より始めよ」と言いますが、悔い改めはまず自分から、私たちの中から起こるべきものです。教会の根源的変革が考えられるべき時代です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.ミカのメシヤ預言
「イスラエルをさばく者の頬を杖で打つ」(1節)イスラエルの敗北が語られています。しかしその後のイスラエルに一人の救助者が起こされると言います(2節)。しかもこの2節、当時の人々にアッシリヤ捕囚からの解放を伝えるのみならず、やがてもたらされる大いなる救い、いわゆるメシヤ預言として語られています。ミカは、永遠の昔から定められた神のご計画として、キリストがベツレヘムに誕生することを預言しているのです。
そこで4節以降は、この人物の働きについて語っています。彼は、単なるイスラエル一民族の支配者ではありません。神の群れを飼い、安らかに住まわせるのみならず、その威力は、地の果てまで及ぶ、と言います(4節)。そして、彼は、平和をもたらす者であると同時に、彼自身が平和なのです(5節)。そして、彼の支配のもとに、力ある指導者が立てられ、神の民が守られ、救われていきます。この預言は、イスラエルの歴史上まだ成就しているとは言えませんので、終末的に理解すべきものです。つまり、「七人の牧者、八人の指導者」は、文字通り、7人、8人ということではなく、キリストの使命に立つ力ある者たちを意味し、彼らが、キリストと共にキリストの意思を実行する、ということでしょう。
2.ヤコブの残りの者
7節「ヤコブの残りの者」は、前節の「彼ら」(6節)「七人の牧者、八人の指導者」(5節)の言いかえでしょう。彼らは、偶像を拝まず、神を信じ仕える者たちでした。彼らは二つのたとえで言い換えられます。一つは、「主のもとから降りる露、青草に降り注ぐ夕立のようだ」と言います(7節)。彼らは、天からの恵みを与える者、人に望みを置かず、ただ神の通り良き恵みの管となる者たちです(7節)。また、彼らは獰猛な「若い獅子のようだ」と言います(8節)。後にヨハネは、黙示録の中で、イエスを「屠られた姿で立つ子羊」と「ユダ族から出た獅子」(黙示録5:5、6)と語り、イエスの二つの役割、十字架上の恵み深いキリストと、裁きをもたらす神の子キリストを指し示していますが、それに通じるものです。神を信じ仕える者は、世において、このキリストの二つの役割を継承し果たすのです。
また11節以降は、神の民そのものの改革を語ります。「あなたのただ中から」(10、13、14節)、「あなたのところから」(12節)」と繰り返しに注目しましょう。時代の困難を神のさばきと考えるのであるならば、それは、世の悪というよりもまず教会の世俗化に対するものと考える必要があります。それはこれまでの文脈からも支持されることです。イスラエルの指導者も宗教家も、まことの天地の救い主を知りながら、その神に背を向け、地位に乗っかるだけ、立場を悪用するだけの者たちでした。神はそこに怒りを発しておられるのです(3:5、11)。15節「国々」にはヘブル語では冠詞がついていますから、前節「町々」の言いかえです。つまりまさに私たちの中から悔い改めが起こらなくてはならないのです。