テサロニケ人への手紙第一2章

1テサロニケ人への手紙2章 成長する教会となる
1.神に喜んで頂くように語る(2:1-5)
パウロは、二回目の伝道旅行で、どこに伝道すべきか散々迷ったあげく、天から与えられたマケドニアの幻に突き動かされるようにして、ピリピへ向かいました。そこでリディヤや、若い女奴隷、そしてパウロが投獄された牢獄の監守などが救われていきます。しかし、ピリピの伝道もそれで終わりでした。ユダヤ人の妨害があって、パウロは、そこからテサロニケ、そしてベレヤへと逃れていくのです(使徒16:11-17:11)。2節、激しい苦闘のうちに、神の福音をあなたがたに語った、というのは、その当時のことを振り返っているのでしょう。当時パウロは、純粋な心で、神の言葉を真っすぐに語った、と語ります。おそらく、パウロの宣教を妨害したユダヤ人たちは、パウロは、不純な心で語っているのだとか、騙しごとを語っているのだとか、様々に批判したのでしょう。しかし、パウロは言います。自分は人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして語っている、と。確かに、聴衆を前にすると、牧師は、言いにくいことがあったりするものです。あるいは受けを狙いたくなったりするものです。牧師も人間ですね。そのような問題は、旧約聖書の中にもたくさん書かれています。王や、民衆にとって耳当たりの良いことばを語る預言者たち、その間違いを指摘する預言者たちのことばが、あります。聖書に慰めを求めて読む人は多いものです。しかし、聖書は慰めや励まし以上のものを与えます。いかに人は神の前に生きるべきかを教えるものでもあり、それはしばしば、私たちの罪の心に逆らう内容であったりするものです。けれども、大事な部分であって、決して語らないですませることはできません。
2.愛を持って、身内に対するように語る(2:6-12)
 ただ、聖書は、恐怖や脅しのアプローチは取らないのです。6節から12節、パウロは実に大切な説教を語る者の姿勢について触れています。7節、「自分の子どもたちを養い育てる母親のように」11節「自分の子どもに向かう父親のように」ある意味で、身内に対するような思いで、愛情深さをもって、言いにくいことも言っていく。人が育つように、語るべきことを語る。ここでは12節「ご自分の御国と栄光に与るようにと召してくださる神に相応しく歩むように勧め、励まし、厳かに命じる」ということです。確かに、子どもに甘いことばかり言う親というものはいないものでしょう。社会で愛される子どもに育つためには、やはりしっかりしつけるという部分もあろうかと思います。けれども、その時に、子どもの性質を良く見極めながら、愛情深く、心遣いを持って、命を削って、養い育てるのが父であり、母であると言えます。
3.良い心で聞く(2:13-20)
そして、そのような関わりに必要なのは、語られた神のことばを、良い心で、素直な心で受け止める力です。やはりイエスが種蒔きのたとえで話されたように、良い心、素直な心で神の言葉を受けるのでなければ、決して良い実は結びません。パウロが語ることを神のことばとして素直に受け止め、繰り返し聖書を学び、聖書に立っていく、そのようなテサロニケの教会の人々の姿勢があったからこそ、テサロニケの教会も、評判のよい教会として成長することができたのでしょう。大切なのは、人それぞれの、神の言葉に対する姿勢、神のことばにどう応じるかと言う事であろうかと思います。では今日もよい一日となるように祈ります。

クイズコーナーです。最初に昨日のクイズですが、「テサロニケの教会が設立されたのは、パウロの第何回目の伝道旅行の時であったでしょうか?①第一回、②第二回、③第三回。答えは、②第二回目でした(使徒16:11-17:11)。では、今日の聖書クイズを一つ、パウロは、伝道旅行をするにあたり、ユダヤ人の会堂のある町を中心に渡り歩いて、会堂で聖書を語ることが基本でしたが、パウロが人を回心に導いた次の町の中で、会堂のなかったところはどこでしょうか?①ピリピ、②テサロニケ、③コリント、答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。