民数記20章

20章 ミリヤムの死,メリバの水,アロンの死
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。荒野の放浪の記録を読み終わります。明日からは新しい世代の物語になります。この15-20章の5章を通して教えられるのは、主として、祭司、そして指導者に関する事柄でしょう。彼らはあくまでもとりなし手として立てられ、民の罪の咎を負う、贖う存在である、ということです。本日はその具体例が示されるところです。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

1.ミリヤムの死、モーセではなくイエス(20:1)
20章をもって、古い世代の放浪の旅が終わる。モーセの姉ミリヤムが死に、兄アロンが死んでいく。それは象徴的な出来事でもある。つまり預言者の代表としてのミリヤム、祭司の代表としてのアロン、そして律法の代表としてのモーセの導きによるのでは、イスラエルは約束の安息に入ることはできなかったということである。約束の安息には、イエス・キリストの導きを予表する新しいヨシュアの働きがあって実現する。これは大事な観点であり、後で再び取り上げることになるだろう。

2.モーセと争ったイスラエル(20:2-13)
さて再びイスラエルの民が水のないことでつぶやき、モーセと争った。この物語は、出エジプト17:1-7に記された物語と非常によく似ている。そこでこれらは同じ出来事であると説明されることもあったが、必ずしもそのように考える必要はない。というのも、出エジプト17章は、モーセだけを語っているが、民数20章はモーセとアロンについて語っている。また民数記の物語は、民数記17章のアロンの杖が芽を出した出来事を前提としている(20:3、17:12-13)。また、モーセが岩を打つ行為は、彼の不信仰を表し、罰を受けるべきものとされた。つまりこれらの物語は、全く別物と考えてよい。実際、ここで裁きを受けているのは、民ではなく、指導者モーセである。詩篇106:32、33では、モーセが「軽率なことを口にした」と説明されている。つまり神は、「杖を取り、岩に命じよ」、と言われたのだが、モーセは「逆らう者たちよ」感情的になり、怒りを持つのみならず、自分を神と等しい立場に身を置き、つぶやく民を責め立ていることが問題にされているのである。モーセに求められたのは、単純な従順であった。モーセにしろ、色々と言い分けしたいことはたくさんあったはずだ。しかし、神はその一度の行為をとがめられて、モーセもまた約束の地に入ることができないことを宣告される(12節)。実に手厳しいのではないだろうか。しかし15章の流れからこれを考察するなら、実にその教訓の深さが理解される。
3.民の咎を負うモーセ
というのは、既に神は祭司に、神に近づく特別な奉仕を任され、またその生活を保障されたが(18章)、それによって聖所と祭司職に関わる咎を負わなければならない、と明言している(18:1、2)。それはモーセにおいても同じであり、例外はなく、その事例がここにあげられたのだ、と理解すべきなのだろう。主にある指導者は、司令官ではなく養育者であり、常に神と共に生きながらも、神の民の側にあって仕える者である。そういう意味では、主にあって働くすべての働き人も同じであり、教職者と呼ばれようが、神の前にただ一人の罪人として、キリストにあって赦された者として、その弱さの中にありながら、神の民と共に立っていく者である。そこを忘れて民の上にいつしか自分を置き始めることのないように、むしろ、民の罪の責任を負う者であることを、覚えなくてはならない。イエスは、まさに十字架において、私たちの罪の責任を負われたのであり、イエスのしもべはそれ以上でもそれ以下でもないのである。
そういう意味では、モーセのように厳粛に裁きが執行されることがあれば、当の昔に牧師としての自分はいなかった、と思うことはいくらでもある。ただ神の哀れみによって、その働きを支えられ続けてきたし、分相応の扱いを受けてきた、ということがある。ならばなおさらのこと、ただ神のあわれみによって今日もこの働きを導いてくださるように、と祈るところだろう。
2.エドムの拒否(20:14-21)
約束の地カナンは目前に迫っていた。イスラエルの民は、大まかに三つの旅を続けてきた。紅海からシナイまで(出エジプト13-19章)、シナイからカデシュまで(民数11-12章)、そしてカデシュからトランス・ヨルダンまで(民数20-21章)というように。この最後の旅において、彼らはエドムの領地を通ろうとしたが拒否され、迂回した(21:4)。イスラエルがカデシュからモアブの地までどのような行程を辿ったのかは、今日明らかではないが、彼らは、エドムを通ることはできなかった。エドムはヤコブの兄弟エサウの子孫である。だから血族的にはイスラエル人と親戚関係にあるのだが、彼らは兄弟のようには振舞ってはくれなかった。このように恩恵を受けるはずと思われる時に、それが妨げられることが世の中にはある。また、言い訳が通ると思う時に、通らないことがある。すべてが神の厳しさによるものではないのだろうが、神のみこころの範囲にあることは間違いはない。神のみこころに従う訓練がある。神のことばに従い、自分の肉の思いをそぎ落とし、神のしもべとして鍛錬されていく訓練がある。
3.アロンの死(20:22-29)
アロンが死に葬られる。彼は民に加えられた。それは人の死後に関する旧約聖書時代の確信について述べている。つまり、人は死後彼らの家族と再会するのである。アロンとモーセは、メリバで犯した罪の故に、約束の地カナンの安息に入ることはできなかったが、神の安息の中には加えられたのである。また同時に、イスラエルの最初の大祭司の死は、一時代の終わりを表したことに注意すべきである。それはイスラエルの新しい歩みの象徴でもあった。さらに大祭司の死は、ある種の罪の贖いをするものでもあった。実際、殺人の嫌疑をかけられ逃れの町に監禁されていた者は、大祭司が死んだ時に釈放された(民数35:28)。万人の大祭司としてのキリストの死は、アロンの死に優り、私たちの贖いを完全に成し遂げ、私たちに新しい時代の確実な始まりを告げるのである。

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