民数記19章

19章 汚れをきよめる水の作り方と用い方
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。本章は一般民衆がどのように汚れからきよめられるべきか、その方法について語るものです。それは、聖所を汚さないためにも極めて重要なこととして教えられました。赤い雌牛の灰で作られた水は、今日はイエスの十字架にある罪の赦しを受けることと同じです。こんな世俗的な者が、クリスチャンの礼拝に集ってよいものだろうか、というのは良識的に生じる感覚でしょう。だからこそ、キリストと共に教会の礼拝に集わせていただく恵みがあることを教えられるところです。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

1.死の汚れからのきよめ
イスラエルには、祭司、レビ人、一般の人という大きく三つの宗教的な区分があった。先の18章は、神の臨在する神聖な幕屋を守る祭司とレビ人の特権と責任について語っていた。本章は、一般の人々が、神の臨在する神聖な幕屋を汚さないために、しかも汚れという状況がある中で、どのようにその責任を果たしうるかについて語っている。実際、16章のコラの反逆の結果、多くの人が一度に死んだ結果、人間の死の汚れの問題を処理することは、最も現実的で深刻な課題となっていた。誰でも死体や人間の骨や墓に触れるなら、あるいは、死人の天幕に入るならば汚れ(14-16節)、その汚れは伝染した(22節)。宿営の中で誰かが死ぬと、宿営の中のすべての人が汚れ、何らかの対応をしないと、主の幕屋を汚す恐れがあった。
これまで人の死体に触れた場合の戒めは幾度か取り上げられてきている(レビ記21:1-4、11、民数記6:6-12、9:6-12)。しかし、ナジル人の場合(民数6:6-12)以外、その汚れを取り除く具体的な方法は示されてこなかった。そこで本章は、死の汚れを清めるためのきよめの水の作り方、使い方を示している。
2.清めの水の作り方(19:1-10)
まずその作り方であるが、くびきの置かれたことのない赤い雌牛が犠牲にされ、灰が用いられた。「くびきの置かれたことのない」というのは、まだ労働力に力を用いず、活力にあふれているという意味、「赤」はおそらく血の色、いのちの象徴で、「雌」はいのちを生み出す意味がある。重要なのは、雌牛は焼かれるが、いけにえとしてではなく、きよめの水を作るために焼かれる。だからそれは、杉の木、ヒソプ、緋色の糸と共に焼かれた。「杉」は、強さと長寿、「ヒソプ」は、きよめ、「緋色の糸は」いのちの象徴である。これらによって灰を作り、必要な時に水と混ぜるために、集められて宿営の外に保管された。
 雌牛は、宿営の外に引き出されるが、そこは、罪のためのいけにで使用されなかった部分を焼いたり、汚れたもの、死人を運びだしたりする場所として用いられる。このきよめの水を作る作業をする者は、その日の夕方まで汚れた者とみなされる。ここに罪の汚れを一身に背負った身代わりの思想を見て取ることができる。赤い雌牛は、身代わりとなって、人の死の汚れを吸収するが、同時にそれは汚れをきよめる水となって再生する。
3.清めの水の用い方(19:11-22)
こうして死と汚れを聖める水は、死に触れて汚れた者に、三日目と七日目の二度振りかけられる。この儀式を守らない者は、宿営から絶たれる。そもそも赤い雌牛が、特例であることから、実際上、特例措置としてなされたのだろう。ただし、そこに示された身代わりときよめの思想は、キリストの贖いを予表するものとして明確である。ヘブルの著者は言う。「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう(ヘブル9:13,14)。
4.今日的意義
内容的には、原始的で、魔術的な物に思える部分であるが、その本質的な意図を考えるなら、決して、古臭い宗教的な儀式と片付けてしまうようなものでもない。実際新約聖書においてヘブルの著者は、これをイエスの救いの予表とし、イエスの救いの効力を語るものとして引用している(ヘブル9:13-14)。赤い雌牛は、キリストの人格と同様に、傷がなく、くびきをつけられたことのないものである。つまりくびきは、服従の象徴であるから、そのようなものがこの儀式のためにとられたことは、赤い雌牛も、イエスも神のみこころにまったく服従するために取り分けられたことを意味する。また雌牛が赤いのは、キリストが十字架にささげられ、血を流されたことに重ねられる。血は聖書の中では最も強力なきよめの手段であり、確かに御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめるのである(1ヨハネ1:7)。さらにこの雌牛は、宿営の外で殺されなくてはならなかった。イエスも、城壁の外に出て、ゴルゴダの丘で殺された。しかも、この赤い雌牛の犠牲は、これ以前にもこれ以降にも一度限りである。完全な一度限りのいけにえである。イエスのいけにえも、全人類のための完全な一度限りの犠牲であり、いけにである。イエスの死によって、私たちは、神の怒りから解放され、罪の赦しを得、罪の支配からも解放された。実に、このように雌牛が人の罪を赦し、きよいものとするならば、尊いイエスの犠牲はいかばかりであろうか、というわけである。つまり、この儀式は、イエスの十字架もそうなのであるが、人間に必要な人生における最も深い真理を、その時代的な感覚で語っているものである。だから原始的、魔術的だと思われる儀式が表現している真理に目を向けることが大切となるだろう。そしてそれは、イエスの十字架にある罪の赦し、けがれの聖めの力を信じることにある。

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