詩篇47篇

47篇 神の民の礼拝

<要約>

おはようございます。高挙のキリストを覚えるメシヤ詩篇と呼ばれるものです。確かに、大いにあがめられるは、十字架にある罪の赦しを実現し、天に昇られたまことの主の恵みそのものと言わなくてはなりません。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.背景

「すべての国々の民よ。手をたたけ。喜びの声をもって、神に大声で叫べ」(1節)。この詩篇には、賛美と喜びが満ちている。その視野は、「国々の民」「全地」へ向けられ、つまり世界大の展望をもって語られている。全地の王である神を認め、その神に向かって手を打ち鳴らし、喜びの声をあげて叫ぶように、角笛をならしほめ歌を歌うように呼びかけているのである。

具体的な背景として、セナケリブによるエルサレム包囲を、神がご自身の奇跡的な御業をもって打ち破られた時のことが想定されていると考えられているが、ここにさらに、メシヤ的な意味を汲み取ることは間違ってはいないだろう。

「神は上られる。喜びの叫びの中を。主は行かれる。角笛の音の上を」(5節)と言う。一説に、2サムエル記6:15、ダビデが契約の箱を運び上ったことを背景としている、とする。「神は上られる」の動詞は、完了時制であるので、ダビデの時代の一回きりの大きな行事を意味している、という。しかし、この詩篇全体の内容からすれば、これはダビデの時代の一回きりの行為に当てはめられるものではなく、むしろ、新約時代の一回きりの行為、つまり、御民を救い出すために、天から降りて来られた神が、その王座に戻ろうとしている、それに当てはめるメシヤ詩篇的解釈が妥当だとされる。つまり、十字架の御業を成し遂げ、復活により、悪の業を打ち滅ぼしたイエスの勝利の凱旋、いわゆる昇天(使徒1:9)が描かれているのだ。また「神はその聖なる王座についておられる」(8節)と言う。まさに、天の右の座に坐しておられる高挙の主をイメージさせるところだろう(ピリピ2:9-11)。

2.言葉の限り歌う

そのような意味では、この詩篇は現代的な詩篇であり、イエスの救いの業を覚え、讃えるものとして、繰り返し口ずさむべきものとなる。繰り返し主がしてくださった御業を思い起こし、喜びと歓喜に溢れて、高く神の座についておられるキリストを賛美するためのもの、と言える。

6節。「ほめ歌を歌え。」ヘブル語では、ザムルー。基本的には、礼拝の中で弦楽器や打楽器を使って賛美をささげることを意味する。7節。「言葉の限りほめ歌を歌え」とある。ヘブル語ではマスキール。新改訳は、「巧みな歌」と訳すが、知恵と巧みさという概念が含まれており、パウロが、「知性においても讃美しましょう」(1コリント14:15)と語ったのは、その理解に基づくものとされる。ただ「歌う」のではない。神にささげられるものとして、よく準備され練られた歌を言葉の限り歌う、ことである。

かつて、明治期に、艦隊を組んで日本に開国を迫ったペリーの艦隊は、毎週日曜日になると、艦上で盛大な礼拝の時を持ったという。軍楽隊の音楽に合わせて賛美がなされる様に、当時の日本人は、何事が起ったかと驚き怪しんだという。実に、礼拝は、いと高き方、恐れられる方、全地の大いなる王をたたえるものである。偉大な十字架の御業を成し遂げ、天に戻られた国民を従わせる方をたたえるものである。そのような意味で礼拝が整えられ、良く構成されてささげられることは重要である。賛美のみならず、受付、司会、奏楽、もちろん説教にしても、よくよく祈られ、練られて、巧みに整えられて、ささげられる必要がある。礼拝という一事に、私たちは深い感動を持って臨まなくてはならないのだし、この時を、神に最高の栄誉を帰す時としたい。

また、「国々の民の尊き者たちは、アブラハムの神の民として集められた」(9節)という国々の民が、民族や部族、ことばや国の違いを越えて一つの民として集められる。まさに黙示録7:9に述べられている、最終の礼拝のイメージである。それは、イエスの十字架と復活、そして高挙において始まり、世の終わりと共に完成するものである(ヨハネ12:32)。その主の礼拝の祝福に与ることを目指す歩みとさせていただこう。

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