イザヤ書21章

21章 主は言われる
おはようございます。国や社会の不正に、はて、と思うことがあるものでしょう。しかし、それらは放っておいても、やがて因果応報と言うべきか、滅びるべきものは滅び、正されるべきものは正されていくものです。正しい神はおられるのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.バビロンへの警告
「海の荒野」とは、バビロンを意味する(9節)。バビロンについては、すでに13-14章で取り上げられているが、単なる繰り返しではなく、イザヤの悲しみの心情を加えたメッセージとなっているのが特徴である(3,4節)。
この預言の成就については、二つの説がある。BC689年、セナケリブが率いるアッシリヤ軍がバビロンを陥落させたこと、またその後のBC538年、キュロス率いるペルシヤ軍がバビロンを滅亡させたこと、と分かれている。ここに描かれた状況は、前者に近いとされている。というのも、キュロス王は、バビロンに無血入場し、偶像を大切に取り扱った。ここで語られるように、何の警戒心もない人々の日常の最中に、突如侵略者が現れて、住民が虐殺され、神殿や偶像が破壊されるような惨状は(5節)、BC710年のサルゴン、BC689 のセナケリブの攻撃の時に起こったことであるからだ。
イザヤは自らの心情を語る。それは「心乱れて、聞くことができない」「恐ろしさのあまり、見ることができない」(3節)と。このような歴史が起こってはならない、とイザヤは声を大にして語らざるを得なかったのである(10節)。「踏みにじられた私の民」「打ち場の私の子らよ」は、ユダ南王国の民を指している。アッシリヤによって踏みにじられている今、その脅威はユダ南王国にも迫っている、というわけだ。
2.ドマ、アラビヤへの警告
11、12節は、ドマに対する警告である。実際にドマという地名はなく、一字違いのエドムのこと、と考えられている。BC712年にサルゴンに率いられたアッシリヤがエドムを滅ぼしている。それは暗黒であり終わりなきものであることが、夜回りとの対話でもって比喩的に語られている(12節)。「朝は来る」そして「また夜も来る」のである。つまり暗黒の終わりはないということだろう。
13-17節は、アラビヤに対する警告。アラビヤにも、危険は差し迫っていた。それは後1年の内に起こることであると(16節)。ケダルの勇士は、アラビヤ人の中でも勇敢で強いとされた戦士たちである。しかし彼らも徹底的に打ち砕かれるとする。
イザヤが、これから先の激動の時代について語る。しかしそれは、イザヤが語ることではなく神のことばを伝えているに過ぎない。神のことばがあらかじめ歴史について予告しているのである。しかも、それは、ある意味で因果応報的な歴史である。このような不正の時代がいつまでも続くことはない、と人は誰でも思うことだろう。だが、そのような予感は、既に聖書に語られている。正義を力とする神がおられれば至極当然のことである、と。だからこそ、人は神を恐れ、正しい歩みを選び取っていくことが大切なのである。

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