75篇 神の主権に安らぐ
おはようございます。「滅ぼすな」の調べについて、理解を深めたいところです。これはある意味で、神を信じる者が、覚えるべき、人生の基本公式のようなものです。人間的に滅ぼしてはならない。神に裁きを委ねていく。復讐するわれにあり、という神に期待していく。神の主権と正義は確かだからです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.文脈
この詩が詠まれた背景として、BC701 年、アッシリヤによるエルサレム攻めの出来事があったとされる(2列王19:36)。その時、神の奇跡的な介入があって、エルサレムの攻略は失敗し、セナケリブは敗走した。しかしそれが背景であるとすれば、アサフは、ダビデ・ソロモン時代の人物なので、時代的な矛盾を抱えることになる。つまり背景はよくわかっていない。
ただ表題は、詩篇57、58、59にも出てくる「滅ぼすなの調べで」とある。新改訳の「~の調べで」は、これを朗読または音楽の調べと解釈し、説明的に加えたことばである。
そもそも、詩篇57、58、59は、感謝と賛美の詩であるが、ダビデの危機的な状況で詠われた。それは、サウルに命を狙われ、追い詰められた状況の中で、しかし、主に油注がれた王であるサウルを撃ち殺すことはできないジレンマの中で、ことに57篇は、反逆の機会が与えられても、手を下し、人間的に滅ぼそうとしなかった状況にあって作られている。つまり「滅ぼすな」は、神の裁きに委ねて、「殺してはならない」(1サムエル26:9)という意味を持つ。
2.神への感謝
その前提を押さえて1節を読むと、まず、詩人は、神への感謝の声をあげる。「感謝」は「告白」とも訳せることばで、ヘブル語原文では、同じことばが二度繰り返されている。つまり、強調であり、神の素晴らしい助けに心からの感謝のことばがほとばしり出ている状況を物語っている。
「御名は近くにあり、あなたの奇しいわざが語り告げられています」(1節)。御名は、神の存在を表す。イザヤが「見よ。主の御名が遠くから来る」(イザヤ30:27)と語ったように、「御名は近くにあり」というのは、神が物理的に近く切迫して存在する、ことを意味する。単純に、神が遠くにあれば、呼んでも答えが得られない。しかし、「近くにあれば」すぐに答えてもらえる状況である。だから神が近くにある、というのは、必然的に神が私たちの人生に介入し何事かが起こる、神の次のアクションへの期待感を生じさせる。
ともあれ詩人は、神を身近に感ずる経験に基づいて感謝を言い表し、証をしている。そのような意味で、信仰生活は、まず何よりも、神の配慮と恵みを味わうことにその本質がある。日々の生活の中で、神の善であることを味わい知らなくてはならない。そのことが分かっている人の奉仕や証は、牧師としても、見ていても安心である。しかし形が先行している人の信仰生活は、不安定で危うさを感じる。
奉仕や証の基本に、神の恵みの介入があり、感謝がある。その順序は逆にはならない。十番が逆になってしまうと、自然なものが自然にはならない。最近教会から帰るとホッとするなどという人と出会ったが、それは、今の教会があまりにも忙しすぎるという状況があるのみならず、やはり、証が先、奉仕が先になって、神の恵みを感じず、味わうこともなく歩んでいることもあるのだろう。調子のよい時はそれでもよいが、精神的に弱っている時には、証も、奉仕も続けられないのは田泓善である。「御名は、近くにあり」という信仰の歩みを大事にしたいところだ。
3.復讐するは、我にあり
詩人は、自らの経験を通じて、神の絶対的主権を認める。その主権は、私たちの生活に及ぶ主権である。「高く上げることは、東からでもなく、西からでもなく、荒野からでもない。まことに 神こそさばき主。ある者を低くし ある者を高く上げられる。」神の主権は概念上のことではない。神の主権は、実際に私たちの生活の内に働くのである。私たちが左遷させられるのも、栄転するのも、神の業である。人を怨んだり、人に怒りを燃やしたりするようなことではない。そのような意味では、私たちが不用意に自己卑下する必要もなく、静かに神の時とご計画を思い、神の前にただ謙虚に生き、ただ神の正義がなされることを求めていくことが大切だ。詩人は言う。「主の御手には杯があり、混ぜ合わされた泡立つぶどう酒が満ちている。」(8節)。このぶどう酒は神の怒りの杯を象徴している。この世の悪者どもが、最後の一滴まで飲み干さなくてはならない裁きの杯である。あれもこれも神のなさることとすれば、神の裁きが中途半端になることもない。神は、悪者をきっちり裁かれる。ただその「定めの時」(2節)は、人にはわからない。だから表題にある「滅ぼすな」、という精神が、教訓的に詠われるのである。悪しき者が栄えている時に、そのように見通すことは難しいことかもしれない。悪しき者の勢いはそんなに容易くは衰えないものであろう。しかし、悪しき者の力は打ち砕かれ、正しい者の力は増し加えられる。主の主権が私たちの生活にどのように働くかを、私たちは知らなくてはならない。そこに私たちの感謝と証も生まれるからだ。