イザヤ書61章

61章 神の熱心
おはようございます。今日の箇所は、イエスが、ナザレの会堂で引用され宣言されたことばから始まります。それは終末的な希望を語るところにあったと言えますが、「今日、このことばが実現した」ということばには、同時代への希望を促す意図もあったことでしょう。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.イエスの適用
 1~2節は、イエスが公の宣教活動を開始した際に、ナザレの会堂で朗読した箇所である(ルカ4:18)。もちろんイザヤ書の最初の読者たちは、これを捕囚からの解放を預言するものとして読んだ、と思われるが、イエスはこれをご自分の時代に適用された。イエスの時代は、イドマヤ人ヘロデがユダヤを治めていた。ヘロデは、当時ユダヤを支配していたローマ帝国に王位を与えられるが、王になると自分の地位を脅かしかねない人物を次々と殺害し、終いには最愛の妻マリアムネにも疑いの目を向けて殺している。つまり、正義ではなく、一人の狂人的な人物の力で社会が動かされる恐怖の時代であった。であればこそ、イエスの適用と宣言は、人々の心に光を投げかけたに違いないことだろう。
「貧しい人(1節)」と訳されたヘブル語のアナビームは、文字通りの貧乏人というよりは、弱められた人、打ち砕かれ絶望した者を意味する。「捕らわれ人」「囚人」は先のような時代背景であるから、犯罪人とは限らない。まさに神の復讐(2節)を待ち望む者にとっては、それは大いなる救いの日の実現である。当時人々は、悲しい出来事があれば灰を被り、その悲しみを表現した。しかし、神は悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに、賛美の外套を着けさせる、という(3節)。「樫の木」は、青々とした生気と強さの象徴である。その勢いをもって荒れ跡が一新される(4節)。その復興は、実に不思議な光景である。というのもその神の恵みを受ける者たちは、もはやかつての生活を回復するのみならず、神の祭司とされ、諸国民を治める特権に与り、溢れるばかりの祝福を享受するようになるからだ。こうしてイエスの解釈は、明らかに当時のユダヤ人に希望を与えたものの、実際的には終末的な含みのあるものであった、言えるだろう。
2.今の時代の恵み
10、11節は、「わたし」ではなく「私」となる。つまり、主のしもべの告白ではなく、主のしもべを認める者の告白である。そこで考えるべきは、すべてを終末的に捉えるのみならず、今の時代に適用し、10、11節を自らの告白とすることだろう。10節の「救い」と「正義」はヘブル語ではツェダカーである。つまりここは、言い換えであり、救われることは、神の義を抱くこと、つまり神の正しさが明らかにされることに他ならない。神の救いは、必ずしも私たちの思うとおり、スケジュールするとおりにはならないことがある。しかし、確かに私たちに救いは起こる、と信じていくのだ。心を低くし、神がどのようにこの廃墟を、ご自身の熱心な愛によって建て直されるのか、神のなさることを見つめていくのである。救いは彼岸において確認されるだけではない、今味わい知るべきことでもある。雨が降り、決して天に戻らぬように、神の恵みは地に業をなす。神に期待しよう。

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