哀歌3章

3章 主のあわれみは尽きない

おはようございます。後のものを忘れ、今あるいのちの現実に生きていく、打ち破れた人はそこに立ち戻らざるを得ません。神のあわれみが豊かであればこそ、それも可能です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.主の恵みを待ち望む

バビロン捕囚にあって、神の側についたエレミヤやバルクに繰り返し語られたこと、そしてエレミヤも繰り返し警告の中で語ったことは「あなたのいのちは助かる」(38:20、39:18、45:5)「いのちを救え(51:6)」というものでした。そして今や、いのち救われた者として、滅ぼされた悲惨な現実よりも、これから生き延びていかなければならない現実に、詩人は直面しているのです。神のなさった仕打ちに沸き起こる疑問を、小脇に抱えながら、今や、神にいのち守られ、生きながらえて前に進まなければならない、もう一つの現実に心を向けなくてはならないわけです。

しかし、かつてネヘミヤの一行が、エルサレムを再建しようとエルサレムに帰還し、いざその事業に着手し始めた時に、つい口からこぼれたことばは「荷を担ぐ者の力は弱り、瓦礫は山をなしている。城壁を築き直すことなど、私たちにできはしない」(ネヘミヤ記4:10)でした。いのちがあってもどうしようもない、この先手も足もでない、と思えることがあるものでしょう。心はとめどなく、過去の記憶に打ちのめされ、沈むばかり、ということがあるものでしょう(20節)。

けれども、いのちある限り希望はあると言うべきなのです。神がいのちを残されたのは、その人に新しい未来を用意されているからです。主のあわれみがあるということは、一度限りのあわれみではなく、何億万倍のあわれみがあると言うべきでしょう。主は善きお方です(22節)。朝目覚めるならば、その日一日の恵みがあることを信ずべきです(23節)。

2.進みつつ祈る

そこで、大切なのは、まず、十分に恥辱を受けることでしょう。つまり底付きの現状をよく受け止めることです。当時、捕虜は、まず後ろ手を縛られて地面に転がされました。口を土のちりにつける姿勢を取らされたわけです(29節)。そうであるなら、その状況を素直に受け入れることだ、と言います。「主はいつまでも見放しておられない」(31節)「意味もなく、苦しめ悩ませることはない」(33節)という信仰に立つことです。苦難が神からのものであれば、それを取り去るのも神の心次第、神の時によるのです(38節)。

そして、神の哀れみを素直に願い、祈ることでしょう(40節)。つまり、神との関係をしっかり建て直すことです。まさにそのような時にこそ、「恐れるな」と語り近づいてくる神との関係が深められるのです。そして神が人間の不正を決して見過ごされず、人を踏み躙ったり、権利を曲げたりするような者を見逃すことはないことに確信すべきです(34-36節)。そのように神との語り合いの中で、神が正しいことをなさるお方であると信頼が沸き起こるなら、これからの自分の将来についても、何かよき道が開かれると安心できるはずです。自分の心の思いを神と深く語り合う、そこから始めてまいりましょう。

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