哀歌2章

哀歌2章 主に向かって祈れ

おはようございます。教会の祈祷会の参加者が減り続け、久しくなりました。しかし今や祈りの炎を再燃させるべき時代です。共に熱い祈りをささげたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.成し遂げられた神の計画

バビロン軍の猛攻によって、エルサレムは破壊し尽くされました。「これが、美の極み、全地の喜びと言われた都か」(15節)。実に、その惨状は筆舌に尽くし難いものであったと思われますが、それは難攻不落の町が滅びたという以上に、神の都が滅ぼされた事を意味しました。神が選び、神が共に住み、神の祝福が命じられた都が滅ぼされたのです。ただそれは、イスラエルの神の負けを意味したわけではありません。

しばしば古代では、敗戦はその国の守護神の負けを意味しました。しかし、イスラエルの敗北は、言わば守護神によってあらかじめ計画されていたことでした。彼らが背を向けた守護神の裁きとして起こったことだったのです(17節)。イスラエルは、バビロン軍を敵と見なしていましたが、本当の敵は、そのバビロン軍を送り込んだ、彼らの守護神であったというわけです。長い間、まことの神に対する信仰を捨て、偶像崇拝に陥り、神との契約をないがしろにしたイスラエルが、その契約どおりに、裁かれたのです。こうして、イスラエルの民は、何も可も失い、そして、偽りの平和と繁栄の希望を語る者たちは、沈黙し(14節)、エレミヤのことばの正しさが明らかにされました。

2.主に向かって祈れ

ただ契約を破り、その契約の報いを受けたとしても、それはあまりにも悲惨な現実でした。エレミヤは言うのです。「主よ、よくご覧ください。誰にこのような仕打ちをなさったのかを(20節)」。戦争であれ、自然災害であれ、その惨状に面と向かうなら、そのあまりの痛ましさに、人は、これを単純に神の裁きと口にすることを憚られるものです。事実、子を煮て食べる母親、虐殺される祭司、食べ物もなく力尽きていく年寄りや子ども、剣に殺められた若い者たち、エルサレムにはまさに地獄絵図の様相がありました。神が裁いたと言うのなら、神が無慈悲にこれらのことをしたのです。神よ、なぜここまでに、否ここまでしなくても何か手はなかったのか、とエレミヤの心は悲しみに打ち震えているのです。けれども警告し続けてこられた神に不正はなく、行き過ぎもなかったのも事実です。

だからこそ、二度とこのようなことを繰り返さないためにも、信仰者がどれだけ真剣に、これから先神の前に祈らねばならないか、と思わされます。裁きを警告し実行された神は、予め、悔い改めによる回復をも約束されておられました。この惨状がまことの神を認めなかったことによるものであること、神がご自身の支配をわからせるためのものであったことを、素直に遜って受け入れ、神に立ち返って、回復のために心を注ぎだして祈ることが求められています。今や祈祷会はそのような熱き祈りの場となっているのでしょうか。今こそ共に誘い合って集まり、まことに心から神を仰ぎ、神よこの日本と世界を癒し、再び平和を来たらせよ、と祈り合おうではありませんか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です