エレミヤ書51章

51章 バビロンに対する宣告

おはようございます。バビロンへの裁きのことばが語られ、ユダヤ人には、その裁きから逃れるように、と語られます。神のことばへの注意深さが、日々求められるところでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神の裁きを宣告するセラヤ

バビロンに対する裁きの宣告は、先の50章から続き2章で締めくくられます。宿営の長であったセラヤに、巻物に書き記された神の裁きのことばが手渡されています。セラヤは、エレミヤの預言を口述筆記して助けたバルクの兄弟です。彼は、神の定めをバビロンで宣告する者となりました(59-64節)。しかし彼が期待されたのは、バビロン政府に、もしくは、バビロン捕囚の民にこの宣言を伝えることではなかったようです。むしろ、彼自身が、この神のことばを行動預言的に朗読し、どう生きるかを問われたのでした。

ですから、その後書かれたエレミヤのことばは、これを読んだ人々にどう応じるかを問い続けました。その具体例がダニエルでしょう。ダニエルは、エレミヤ書を読み、バビロン捕囚の終わりが近いことを悟っています(ダニエル9:2)。既に神のことばは語られ、それは書物とされている。後は、その書かれたものを手に取り読む者が、それをどう受け止めるかです。

先日ある方が言いました。玉川の礼拝は、一回で読む聖書朗読箇所が長く、説教は聖書の翻訳であると考え、どちらかと言えば説教よりも聖書朗読に重きを置いている、と。そして、説教も主題説教はほとんどなく、解説的な連続講解説教できている、と。だから今日の説教はよかった、悪かった、そんな議論はほとんど起こらない、と。確かに、ヘブル語、ギリシャ語で書かれた聖書は、わかりやすく翻訳されていますから、それに優る何かが聞けるということはなく、聖書が語るところに注意深く耳を傾け、これにどう応じるかが大事にされなくてはならないのです。

2.自分自身を救え

そして51章において、ユダヤ人であるセラヤの身において、心に響いてきたであろうことばは、6節、45節に繰り返される「それぞれ自分自身を救え」というものです。神は、明らかにバビロンを滅ぼそうとされていました。神のその意思は確かで、またそれを妨げる者もいません。神は創造主であり、天地万物の支配者であり、鋳た偶像とは異なるのです。彫像を神として崇め、そのために恥を見る結末に至るか、万物の造り主、万軍の主を信じて、闇から光へと入れられる恵みを得るか、私たちは選ばなくてはなりません。

「主は報復の神であり、必ず報復される」(56節)とあるように神は正しいことをなさるお方です。人は世の不正の中にあっても、決して心を腐らせてはなりません。むしろ、正しいことをなさる神の裁きの業に巻き込まれないようにすることも命じられています。一緒に絶ち滅ぼされないように自分自身を救え、と。ダニエルが他の大臣や太守たちに疎まれたのも、決してそのような神の御教えと無関係ではなかったことでしょう。この世と調子を合わせず、神のみこころに生きる歩みを大事にしたいところです。

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