コリント人への手紙第一7章

まずコリント人への手紙は、今日の私たちにも示唆を与える、具体的な問題を扱っている。一つは分派の問題(1-4章)、教会の中に起こる様々な衝突と分裂傾向に対して、パウロは、キリストを教会の頭とし、教会が一致することを勧めた。続いて性的な不道徳の問題(5-6章)とその問題に対する対処を述べている。

ところで、これらの問題は、コリント教会の会員、クロエの家の者がパウロのもとを訪ねてきて助言を求めたことへの回答であった(1:11)。7章からは、1節「あなたがたが書いてきたことについてですが」と、その後手紙による問い合わせがあったことへの返信となっている。これは10章まで続き、結婚、偶像にささげた肉、礼拝の問題が取り上げられており、ここ7章は、結婚の問題が中心となっている。

まず、1-7節、これは実際には5、6章で取り上げた性的不道徳の問題から続く内容である。パウロは、性的不道徳が起こっている問題の解決策として、禁欲主義を勧めるつもりはない。むしろ、社会的に受け入れられる関係を大事にするように勧める。そもそも結婚は、自分自身を相手に与えることであり、性的関係においても同様である。つまり、夫婦にとって性的関係は義務であるとすら言い切っている。おそらく、当時のキリスト者の中に、聖い生活と性的行為との関係に戸惑い、そうした行為を避けようとする問題が生じていたのだろう。パウロは、断ってはいけない、それは悪ではないのだ、ただ、祈りに専心する目的のために、その関係を一休みすることは別であるし、その場合は合意することだ、と言う。

次に、パウロは関連して結婚の問題に踏み込んでいる。これは微妙な問題であった。しかし、パウロは、自分の考えであるとしながらも、そこに、一致を見出そうと、語りかけている。キリスト教は性的な禁欲主義者とは違う。だからと言って、情欲の問題を避けるために全てのものが結婚すべきだ、と言うつもりはない、と。7節、「すべての人が私のように、独身であることがよい、しかし人それぞれに生き方がある」と。結婚と独身のどちらが良いのかということはない。人それぞれなのだ、それぞれが自分の賜物を考えて決めるべきことだ、と言うのである。そして具体的に語っていく。

まず結婚していない男と女(やもめ)について(8-9節)。彼らは、今の独身の状態を保つ方がよいという。それは、子育てに苦労するよりは、独身の方がましだから、というわけではない。結婚するか否かは賜物次第だからである。神の賜物は我慢しなければならないようなものではないので、独身であることが耐えられないのならば、迷わず結婚を選ぶことだ、という。

次に既婚者について(10-11節)、別れてはいけない、と言う。この動詞は、ギリシア語では受動態である。つまり、「別れさせられてはいけない」ということだ。そして、別れてしまったのなら、その状態のままか、夫と和解すべきかいずれかにせよ、と言う。

続いて、同じ既婚者でも、信者でない人を伴侶にしている人について(12-24)。その場合、信者でない人が、結婚関係の継続を望むなら、離婚してはいけない(12-13)、そして、キリスト者の聖なる影響力が及んでいることを信じるべきである、と言う。他方、信者でない人が別れたい、と願っているなら、縛られる必要はない、キリスト者は奴隷ではないのだから、そのような結婚関係にしがみついて、苦しみ自分を痛めつける必要もない、と。むしろ、神は平和な日常生活に召されようとしているのだから、それを受け入れたらよいのだ、と。大切なのは16節、機会は人が創り出すものではなく、神が与えるものだ。別れもまた神の御許しの中で起こっていて、結婚関係を続けていれば、いつしか回心するなど、考えていてもしょうがない、結婚は伝道の手段ではない、というわけだ。

以上、具体的に語った後でパウロは、この問題について最も重要な考え方の原則を述べている。それは、召された時の状態で神の召しに従うことだ。今、置かれた場所で、キリスト者として生き、花咲くことだ。パウロは割礼と奴隷の例を挙げるが、自分の過去や、今ある状況を否定しなくてもよい、とする。というのも、神は私たちをありのままに祝し、用いられるお方だからである(士師6:14)。人は、どうしても、新しい人生を生きたいと願うあまり、自分の過去を否定してしまいがちである。自分の人生の失敗の跡を打ち消そうとする。自分の今の境遇では神の祝福を受けられないと考えたりする。しかし、神にとって、陶器のひび割れも、枝の曲がりも問題ではない。ひび割れたままに、曲がったままに思いもよらぬ祝福をもたらす神を信じるのが救いである。

そして、「差し迫っている危機のゆえに」つまりキリストの再臨が近づいている今は、主をお迎えする準備にこそ心を注力すべきである、と言う。もちろん、これは初代教会時代のキリスト者が持っていた、再臨の切迫感のもとで語られたことであろうが、主の再臨はかつてよりもまして近づいているのが本当である。しかし、主の再臨を遠いいつかの日とするような毎日が、私たちの現実だ。改めて、主のお約束の日は近いことを意識したいところである。家族を持っていれば、伴侶のこと、子どものこととあれこれと心が分かれてしまう。独身であることはそれだけ機動性があるのであって、ひたすら主に仕えることのできる素晴らしい機会と特権を得ている(35節)。目先の人生の損得にあくせくする人生は、それだけの人生である。結婚しても、していなくても、神にささげられた人生を生きることが肝要なのだ。そして結婚する、しないは賜物の問題であり、神の召しの問題である。

だから、パウロは、再婚を認める(39節)。パウロは独身主義を推奨しているわけではない。再婚それ自体は自由であるし、全く悪いことではない。人それぞれに生き方がある、結婚も、独身もそれぞれ神の召しであり、賜物である。むしろ、それぞれの状態にあって、神に専心する人生の幸せを追求したいものである。

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