コリント人への手紙第二12章

コリント人への手紙第二12章 弱さを誇る
1.パラダイスに引き上げられた経験(12:1-10)
 11章で、パウロは、愚かしいと言いながら、敵対者に対し自分の世的な経歴を誇っていました。12章では、霊的な体験を誇っています。というのも、パウロに敵対した大使徒は、実に雄弁で(11:5-6)、幻や啓示(12:1)、しるしや不思議、といった霊験あらたかな人物でした。大使徒は実に影響力のある興行師的存在であったのです。そこでパウロは、自分はすごいというのだったら、私もだ、と自らの霊的な体験を語ります。ただ、パウロは、たくさんの経験の中からたった一つ、パラダイスに引き上げられた体験を取り上げています。おそらくその出来事は、この手紙が書かれる14年前に起こったことであったと思われます。つまりこの手紙は、AD57年の秋、第三回目の伝道旅行の途上ピリピで書かれたと考えられていますから、そこから逆算しておおよそAD43年、パウロが回心してまだ間もない時のことでした。まだパウロが無名の時代(使徒9:30)、故郷のタルソからバルナバによって引き抜かれてアンテオケ教会へ連れて来られまでに起こった出来事だったと思われます(使徒11:25-26)。
ちなみに新改訳、新共同訳では、「一人の人」「彼」の経験として書かれています。当時ユダヤの教師は、自分自身の経験を三人称で語る習慣があったので、パウロは自分の経験をそのように語ったわけです。ともあれ、パウロは神に天に引き上げられる体験をしました。しかし、それによって言いたかったことは、たとえそのような人を魅了する霊的な体験があったとしても、自分が誇りたいのは自分の弱さだ(5節)ということです。霊的体験を誇ったところで、何がどうなる、むなしいことだ、と言うのです。そこでパウロは、天にのぼる祝福の体験を語った後に、神に与えられた肉体のとげの現実について語るのです。これは、パウロが患っていた眼病、あるいは、マラリヤ熱に侵された後遺症のこと、という説が有力です。大切なことは、神を信じて、霊的経験をしたからと言って、その人が全ての痛みや苦しみから解放されるかというとそうではないことがあるわけです。依然として弱さや傷に苦しめられることがある。けれども、それらは否定せずに、小脇に抱えるべきものです。というのも、それらは、人間が高慢にならないために、神が許されたものだからです。それらは決して歓迎されないものでありながら、私たちの内側に、キリストの品性を形作ります(ピリピ2:15)。キリストを主とし、キリストの下に遜らせ、キリストの力を証する人生を生み出すのです(10節)。
2.孤独な働き人パウロ(12:11-21)
さて、最後に、孤独な働き人パウロの姿が語られます。誰もパウロに代わって弁明する者はいませんでした。本来ならば、コリントの教会の人々が立ち上がって、自分たちを育ててきたパウロを、大使徒には全く劣らない、と弁護し、擁護すべきでした。しかしそうではなかったので、パウロは、苦労して、自分の弱さもさらけ出して、大使徒と戦っているわけです。けれども、大切なのは、たとえそうであっても、パウロのコリントの教会に対する愛の思いは変わらないところでしょう。まあ、大人と言えば大人ですね。パウロは、コリントの教会に対しては母親のようでした(14節)。「すべてはあなた方を築き上げるため」(19節)、とコリントの教会を建てあげようと言う思いで一杯です。そうであればこそ教会も前進したのでしょう。パウロは言います。「あなたがたのたましいのために、大いに喜んで財を費やし、自分自身を使い尽くしましょう」(15節)。何事にも言えることかもしれませんが、上に立つ者は、しばしば孤独なものです。誰にも弁護されず、誰にも助力を得られないこともあるでしょう。しかしそれでも腐らず、神が共にいて助けてくださることを覚えて、愛情を持って建て上げようとするところに、人の努力を超えた祝福も起こるのです。では今日もよき一日となるように祈ります。

クイズコーナーです。最初に昨日のクイズですが、「パウロが受けた鞭打ちは、ユダヤ式が5回、ローマ式が3回だったようですが、イエスが受けた鞭打ちは、ユダヤ式、ローマ式、どちらであったでしょうか」答えはローマ式でした。パウロは、ローマ市民ですから本来ローマ式の鞭打ちはなかったはずですが、暴徒の勢いに押され、無制限の死に至る鞭打ちにかけられ危うく助けられたことが3度あったということなのでしょう。今日の聖書クイズを一つ。コリントの教会に宛てられた手紙は四通と言われます。その中で、コリント人への手紙第二は、何番目に書かれたものであったでしょうか。①二番目、②三番目、③四番目。答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

“コリント人への手紙第二12章” への1件の返信

  1. 福井先生

    本日も有難うございます。

    多言語を操ったパウロが聞いた言葉に表せないような言葉とはどんなものなのでしょう。

    この世の言語を習得する前の赤ん坊にも、この世の言語を忘れてしまった老人にも、コミュニケーションを求める気持ちはあります。
    異言語の人々の間にも、語り合いたい気持ちはあります。

    赤ん坊も老人もどんな言語の人も分かり合える超越的なコミュニケーションツール。
    魂と魂が直接情報をやり取りする。
    神さまとも直接つながるチャンネルになる。

    私もいつか、パラダイスで体験できるのでしょうか。

    清水明子

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