コリント人への手紙第二13章

2コリント人への手紙13章 最後のススメ
1.今度は容赦しない(14:1-5)
これまでパウロは、大使徒について語ってきました。彼らは、経歴、弁舌、霊的経験どれをとっても立派な人たちです。けれども、パウロは、そのような点において負けることはない、とマウンティングをしてみせていました(11,12章)。それが実に愚かしいことだ、と語りながら、本当に誇るんだったら、自分は、自分の弱さを誇りたいのだ、と語ります。というのも、キリストがそうであったからです。4節、キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きている。私たちもそうだ。私たちが今生きているのは、神の力によるのである。私たちを通して何事かがなされるとしたら、それは神の力であって、私たちの力ではない。実に私たちの弱さにこそ、神の力が働くのであれば、なおさら弱さを誇り、神が生きておられることを証ししたい、と言うのです。
そして、パウロは、非常に重要な決意を述べるのです。もう二度と教会に、そのような世俗的なマウンティングの世界を持ち込んではならない。訪問してあなた方の教会に、争い、妬み、憤り、高ぶり、混乱など、そんなことを見つけたら今度は容赦しない、とパウロは言うのです。教会はそんな場所ではないのだ、と。神の力によってキリストと共に生きる、という部分を本当に大切にして欲しい、と。
確かに、人は世俗社会のくだらないちやほやに疲れたからこそ、本当にそんなものとは関係のない空気の流れている教会に安らぎを見出すものではないでしょうか。しかしクリスチャンも色々です。教会から教会らしい雰囲気を締め出してしまうようなクリスチャンもいるのです。そこでパウロは、「あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい」と言います。
2.不適格者へのススメ(14:6-13)
で、パウロの言い分は、もし、そこで自分は不適格だ、と思わされることがあったらどうするのか。あなたはクリスチャンとしてだめですね。世の中の人と全く同じではないですか。という問題を感じたらどうするのか。パウロは言います7節「私たちが不適格な者のように見えたとしても、あなたがたに善を行ってもらいたい」バツ印を付けて終わりなのが、一般社会とすれば、教会はバツ印をつけられたところから始まるというべきでしょう。自分はひとかどのクリスチャンだと思っていたが、よくよく自分自身を試し、吟味してみたら、なんとも恥ずかしい世的なクリスチャンだった、とわかったら、そこで、神の力によってキリストと共に生きることを始めればよいのです。弱さを誇るのがクリスチャンなのですから、ダメ印に神の力が働き、神が自分を変えてくれることを求めればよいのです。11節。パウロは愛情をこめて、兄弟たち、とそのように真摯に自分の弱さに向かい合うキリスト者に呼びかけていますね。喜びなさい。なぜか?クリスチャンは、天地万物をお造りになり、この世界を支配しておられる神を信じる者です。神に不可能なことはない、望みは尽きないのですから、喜びなさい、と言います。そして第二に、完全になりなさいと言います。自らの信仰を成長させ、完成させることです。弱かったら、強いクリスチャンとして完成させられることです。第三に慰めを受けなさい、と言います。弱さを自覚する者に必要なのは、慰めです。パウロが、コリント教会の問題を解決しきれず、凹んでいた時に、神の慰めに力づけられながら、戦ったことを思い起こしたいところですね。そして第四に思いを一つにしなさい、と言います。神の力によってキリストと共に生きる、ということで一致していくことです。そして最後に平和を保ちなさい。教会では衝突を起こさないことです。しかし衝突は起こるものでしょう。大切なのは、物事を建て上げる心を持ち、互いに支え合うことでしょう。そのように努めていく教会に、愛と平和の神はとともにいてくださると言います。教会は愛と平和の神がともにおられるところ。多くの人々にとって安らぎの場、避け所でありたいものですね。

クイズコーナーです。最初に昨日のクイズですが、「コリントの教会に宛てられた手紙は四通と言われます。その中で、コリント人への手紙第二は、何番目に書かれたものであったでしょうか。答えは③四番目でした。では今日の聖書クイズを一つ。昨日のクイズに続いて、コリント人への手紙第一は、何番目に書かれたものでしょうか。①一番目、②二番目、③三番目、答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です