ダニエル書3章

3章 金の像と火の燃える炉

おはようございます。信仰は、身をもって証される営みです。その人の行動を見ていれば、どのような性質の信仰を持っているのかは一目瞭然です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.金の像

ネブカデネザル王の治世の18年目、ダニエルとその3人の友人がバビロンに来てから約20年後の出来事です。ちょうど、ネブカドネツァル王がエルサレムを征服し、多くのユダヤ人がバビロンに捕虜として連れて来られた時代でした。そのような背景ですから、金の像の建立は、宗教的な統制を試みるものであったのでしょう。

その像は、高さ約27メートル、幅約2.7メートルの巨大なものでした。おおよそ9階建てのビルの高さと考えてよいでしょう。彫像というよりは方尖塔に似たもので、王の偉大さを誇示するものであったとされます。この奉献式に、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴも出席させられていました。ダニエルは不在でしたが、それは、エルサレム陥落と関係があったのかもしれません。ともあれ、彼らはひれ伏してこの像を拝礼するように求められたのです。しかし、天地創造の唯一まことの神を拝む彼らに、それはできないことでした(出エジプト20:2-5)。三人は、心で拝まなければよい、といった態度も取らず、王が死の罰を宣告しても、これを拒否したのです。本章で注目すべきは、彼らの信仰告白でしょう。

2.たとえそうでなくても

彼らは、神の全能性を、またネブカドネツァル王への優位性を信じました。また、それは基本的に神の主権を認めるものでした。ですから、彼らは、神がこの危機的状況から自分たちを救い出すことができると告白ましたし(17節)、「たとえそうでなくても」、神のみこころに服従するまでであるとの考え方を表明しました(18節)。

神を信じないネブカドネツァル王にとって、彼らの態度は、侮辱以外の何物でもなかったことでしょう。ネブカドネツァル王は、シャデラク、メシャク、アベデネゴに、自分の力を思い知らせようと、火の燃える炉に彼らを投げ入れるのです。しかし、生けるまことの神が、三人の信仰を祝され、ただちにその危機の中に下りてこられ、その火炎から守り、救ってくださったわけです。

この物語は、ハッピーエンドで終わっています。しかし現実はしばしばそうはならないことが多いものでしょう。「たとえそうでなくても」と神の主権に従う以外に道はない事の方が多かったりします。しかし信仰は、神の主権を認めるところがそもそもの出発点です。ご利益信仰というのは、結局自分が中心の信仰ですが、まことの信仰は、神を中心とするものでしょう。人間は自分に都合のよい神を作り出し、その後利益を求めようとするところがありますが、まことに神を認める者は、神の主権に服するのです。それは、ネブカドネツァルの称賛のことばにあるように「自分たちのからだを差し出しても」(28節)という全身全霊の行為です。口先だけのことではなく、まさに身をもって示すものです。そうであればこそ、まことに人のたましいを打つ信仰の証も生じるのです。

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