ヨシュア記17章

ヨシュア記17章 ヨセフ族の再挑戦
<要約>
おはようございます。マナセとエフライム、つまりヨセフ族の割り当てと、彼らのチャレンジが語られています。彼らに求められたことは、勇気と希望を持って、割り当てを自分のものとし、森を切り開いて、自分たちの国を開拓することでした。勇気と希望を持って踏み出さない限り、何も始まらないし、実際に踏み出してこそ獲得されるものもあることを覚えたいものです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.割り当てを自分のものとする
16章に続いて、マナセとエフライムの相続地が取り上げられる。マナセの相続地はエフライムの北であったが、最初にヨルダン東部のバシャンとギルアデもまた彼の相続地となった経緯が説明される。「マキルは戦士であったので、ギルアデとバシャンが彼のものとなった」(1節)。単純な書き方であるが、実に大切な真理を語る。マキルは割り当てを受けただけである。彼は神の約束の地を自分のものとしたのである。
ベテル神学校大学院の卒業式の前夜、教職員、卒業生、家族合同の聖餐式が持たれた。卒業生は壇上で、自分がお世話になった教授に挨拶し、聖餐を受けるのであるが、その時に、お世話になったウィルバー教授が、私をしっかり抱きしめて耳元でささやいた。「神があなたとともにおられる。未知の世界に踏み出す勇気を持て」と。勇気がないために、神の約束の地を自分のものにできないことがある。そういう意味で、このマナセ族の歴史は、私たちにいつでも希望と勇気を持って踏み出すことを教える。
2.勇気を持って踏み出す
次に3節、ツェロフハデには、息子がなく、生まれるのは娘ばかり5人、割り当ての相続地を削られる危機にあって、これが自分の罪のさばきとして受け入れる以外に道はないように思われたことだろう(民26:33)。しかし彼の死後娘たちは勇気をもって自分たちの相続を訴え、父の相続地を受け継ぐことが認められた(民27:1,7)。また、12節、マナセ族にはなかなか占領できない地があった。しかし彼らが「強くなってから」苦役を課したとある。勇気を持たねば始まらないことがある。神の戦士として、神の約束の地を確かに受ける者であろう。
3.自ら地を切り開く
さて14節、ヨセフ族は、くじで割り当てられた相続地では満足することができなかった。そこで、ヨシュアに、さらに多くの土地を求めたところ、ヨシュアは語った。「上って行って、そこを自分で切り開くがよい」(15節)。「あなたは、ただ一つのくじによる割り当て地だけを持っていてはならない。山地もあなたのものとしなければならない。・・・切り開いて、その終わる所まで、あなたのものとしなければならない。」(17,18節)。彼らは新たな開拓への挑戦を迫られたのである。
ここでヨセフ族という言い方がされたのは、先の勇気あるマナセの人たち、つまりマキルやツェロフハデの娘たちと区別するためなのであろう。彼ら以外の者たちは、実際には、自分たちの割り当ての領地が狭いとつぶやいた。しかし本当のところは、欲は深いが小心者だ、というだけのことに過ぎない。
私たちの人生には、呟こうものならいくらでも呟いて、後ろ向きになってしまうことはいくらでもある。強くてかなわぬと諦めてしまえば、それまでである。しかし、神が約束してくださった以上、自分で上って行って、切り開いて、追い払い、その終わる所まで、自分のものとするチャレンジに、神が加勢してくださらないはずがない。ヤコブは、「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。」(ヤコブ4:2)「神はさらに豊かな恵みを与えてくださいます」(ヤコブ4:6)、と語った。自分自身が最大の敵である。「上って行って、切り開いて、追い払い、その終わる所まで、自分のものとする」神が約束されたのだからとしっかりとした志を持ちたいものである。主が私たちに与えられるのは、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊である(2テモテ1:7)。神が私たちに与えてくださった神の賜物を再び燃え立たせてくださるように。そして勇気をもって、未知の世界に踏み出し、占領する戦いへと送り出していただこう。

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