ルカの福音書6章

安息日になると全自動各駅停車になるシャバット・エレベーター、コーシャス規定にそって、食肉だけの問題ではなく、安息日が始まる数時間前には店を完全に閉め人気のなくなる大通り、そんな安息日の制度を頑なに守る姿を見ると何か矛盾しているような気もするが、実際に安息日を家族で過ごし、陽気に歌を歌い楽しみ、安息日明け(翌日の日没)までゆっくりと過ごしているユダヤ人を見ると、安息日は本質的に喜びの日であり、神が設けられた人のための祝福の日なのだ、と思わされるところがある。それに比べて日本の教会は、別の意味で礼拝を守ることにおいて律法主義的で、神に与えられた安息日そのものを楽しんでいないことがあったりするのではないか。というよりも、日本の社会が忙し過ぎることもあるのかもしれないが、日曜日に教会の予定がすべて凝縮され、日曜日は礼拝の日プラス教会の活動日となっていることが多く、主が命じられ、主が祝福の日とされた安息を味わうような体制にはなっていなかったりする。ユダヤ人には文字通り安息日は「安息」の日であるが、日本人にとってそれは「聖日」であり、大いに教会が活動する日である。使徒の働きのペンテコステの流れからすれば、それも一理あるのだが、週日仕事でよれよれになっている日本人キリスト者が、神が設けられた「安息」の日を楽しむように、教会の在り方も変わらなければならないように、私は思うところがある。

だから1-11節は、安息日論争であるが、その安息日のイメージは日本人の聖日のイメージとは全くかけ離れた背景で理解する必要がある。つまり、安息日を自然に、常識的に楽しんでいる人たちがいる。そういう中で、極端に戒めで雁字搦めになりながら静まる「安息」を厳格に守ろうとする、あるいは守らせようとする人たちとの論争がそこにある。この時弟子たちは、お腹がすいて、穂を摘んで、手でもみだして食べた、とある。しかし、ラビたちからすれば、それは安息日には禁じられた労働と見なされた。バカバカしい適用であるが、刈り取り、脱穀、ふるい分け、食事の用意と、それは、四つの行為でもって安息日を破ったのである。これに対してイエスは、二つの論理で反論している。一つは、旧約聖書のダビデの例であり、緊急性の論理である。必要があればそれは優先されるといわけだ(3節)。そしてもう一つは、制定者の論理。つまりイエスは、安息日を定めた安息日の主である(4、5節)。これに続く奇蹟物語は、イエスの言葉の正しさを証する。病の癒しは、イエスが「人の子」であることを確かに示すものであったが、パリサイ人は、そんなことよりも、ご自分を安息日の主とし、神と等しくしたイエスの姿勢に怒りを燃やした。彼らはイエスを神として認めることなどとうていできなかったのである。

さてイエスは、ご自分の弟子たちを呼び寄せ、12人を選ばれた。これは、旧約の12部族に重ねられるものであって、イエスは12人の使徒を起源とする新しい選びの民を興そうとしたのである。だから17節以降の平地の説教は、かつて出エジプトにおいて、イスラエルの民が十戒を与えられ、神の啓示に従う民として訓練されたことに相当する。実にそれは、弟子たちに、新しい霊的な「イスラエル」(ローマ11:26)としての生き方を教えるものなのだ。基本的にこの説教は、マタイの山上の説教とよく似ているが、「平らな所にお立ちになった(17節)」と場面設定など異なる部分も多々あり、別の機会に語られたものを収録したものなのかもしれない。

ともあれイエスは、新しい民の価値観を最初に取り上げる。常日頃、自分が幸せであるとか哀れであるとか一喜一憂して生きているところがあるのだが、それはどんな判断基準によるものなのか。しばしば自分は不幸だと悲しみに沈んでいる人がいるものだが、それは、世の中で通常そう思われているから、というだけに過ぎなかったりする。神の視点に立てば、別に悲しいことでもなんでもないのである。パウロは、「どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」(ピリピ4:11)と語ったが、神に選ばれた新しい民は、今ある状況を素直に受け止め、そこに別の意味での喜びを見いだす知恵者である。

第二に、新しい民は、価値観や発想が違うばかりか、行動も違う。一般に、敵は憎むものであって愛するものではない。しかし、イエスは言う。新しい神の民は、敵を愛するのだ、と。(27節)。それは、私たちをご自分の子として選んでくださった天の父が「あわれみ深い神」だからである(36節)。子が父に似るように、神の子である私たちも、天の父のあわれみ深さを身に着けて育つのである。大きな愛は、新しい神の民のしるしである。だから人をさばいてはいけない、という。むしろ大きな天の父の愛に生きる、主の弟子は、「赦しなさい」「与えなさい」という。

最後にイエスは、こうした新しい価値観、新しい行動によって、人生を築き上げるように、と語られる。新しさに生きようとしたら新しさをもたらす源泉に絶えず触れなくてはいけない。よい習慣は、よい思考、良い行動の積み重ねによる。絶えずイエスの元に自分を置き、イエスの言葉に親しみ養われていく毎日が私たちには必要なのである。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です