ルカの福音書7章

神の子イエスがなさった奇跡が綴られる。一つは、百人隊長のしもべの癒やし。もう一つは、ナインという町のやもめの息子に起こった奇跡である。

普通ユダヤ人は、ローマ人に対して、特に、ローマの兵隊に対してはあまりよい印象を持っていなかった。しかし、この百人隊長は別であった。彼は、ユダヤ人に親切で、彼らの宗教に敬意を払い、会堂を建てる善を行い、ユダヤ人に愛されていたのである。おそらく彼も神を恐れ、信仰を同じくしたのかもしれない。そんな彼が、イエスの助けを求めに来た。すくなくとも彼は、イエスが、神の子であり、そのことばには力があることを認めていたのであろう。また彼は謙虚であった。「おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ず癒やされます」と自らの信仰を言い表している。そこにはイエスの権威の元にはあらゆる者が服する、イエスを主と認め、受け入れる信仰がある。神のことばには力がある。神が語られるなら、この自然も、あの難しい人間関係も、この癒やしがたい病も、一切が従うのだ、という信仰である。そこにはイエスに病を癒す力があるという以上の、イエスを万物の主と認める信仰があった。

さて、次に出て来るのはナインの息子のやもめの話。イエスが死人を生き返らせた記録は、他にもいくつかある。ベタニヤのラザロの物語(ヨハネ11:1-44)、会堂管理者ヤイロの娘(ルカ8:40-56)と。大切なのは、イエスの権威には、死もまた従うところだろう。人間の最終の敵は死である。死に勝利した人間はまだ一人もいない。しかし、キリストは堅いハデスの門を打ち破り、死者を取り戻すことができるのだ。そして同時にこの物語は、打ち破れた者に対する神の温かい心遣いを思わせるものである。ナインのやもめの女は、すでに、夫を失い、さらにかけがえのない一人息子と死別していた。当時、女性が一人で自立して生きていくのは極めて困難であり、この女性は、実に孤独と苦難を背負う惨めな境遇にあった。ナオミが自分をマラと呼んだ寂しく悲しい思いがあったことだろう(ルツ1:20)。しかし、神は彼女の人生に目を留めてくださっている。ルカは初めてここでイエスを「主」と呼ぶ。実に私たちが主と呼ぶこのお方は、哀れみ深さをその第一の特徴とするのである。そしてこの主であり、神である方は永遠に変わることがない。今なお社会の隙間に押しやられるような者を、心に留めてくださるお方である。こうしてイエスには、当時考えられる限りの最大の敬称である「大預言者」が帰せられることになった。

そういう意味では、18節以降のバプテスマのヨハネの物語も、社会の不条理によって失われゆく者、見捨てられる者への主の深い心遣いを思わせるものである。バプテスマのヨハネは捕えられていた。そのヨハネがイエスに使いを送る理由は何か。様々に考えられている。①ヨハネの弟子たちが疑念を抱いていた、②ヨハネはいよいよ自分が退くべき時が来たと考えていた、③ヨハネ自身のメシヤ信仰が弱くなった、③ヨハネの忍耐力が限界に達していた、などである。いずれにせよ、ヨハネはイエスを認めており、イエスが自分にとって代わる働きをすることを知っていた。ただ人間として困惑していた部分も多少はあったことだろう。だから獄吏にありながら、イエスの意思を確認したい思いもあったのではないだろうか。そんなヨハネにイエスは自分の働きの使命を告げる。イエスは「目の見えない者たち」(イザヤ35:5)、足の不自由な者たち(イザヤ35:6)、ツァラアトに冒された者たち、耳の聞こえない者たち(イザヤ35:5)、死人や貧しい者(イザヤ61:1)にこそ心を配られる、旧約預言のメシヤの働きに専心している、と。イエスはまさにあわれみの主としていよいよその働きを広げておられたのである。そういう意味で、バプテスマのヨハネすら忘れられてはいなかった。となれば、どんな人であれ自分の人生など価値も意味もない、と思われるようなことがあっても、いずれその価値と意味を見いだせることだろう。

最後に、罪深い女とみられた女性のエピソード。他の三つの福音書にも出て来る物語であるが、ルカの物語は時期的にまた別のものであると考えられている。そしてこの物語における中心テーマは、愛と赦しにあり、香油を売って貧しい人に施す慈善ではない。つまりこれは、神に愛され、赦されることを味わった女の物語である。神はただ、施しをする神ではない。神のあわれみは、人間の心の必要にこそ向けられる。人間の罪意識に、人間の深い心の闇にこそ温かく向けられるのである。

目に見えない神に愛されることを体験するのは、主観的な経験かもしれない。しかし、神は、どんな者をも拒まれない。いや、社会の隙間に落ち込んでいく者を見逃さないお方である。その神を神として仰ぎ、神に正しく近づくならば、私たちは祝福から漏れることはない。神を認め、神の権威あることばに耳を傾け、主の命を受けながら歩む者でありたい。

 

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