使徒の働き21章

大きく三つの伝道旅行を終えたパウロは、エルサレムに上ろうとしていた。それは、エルサレムに献金を届けるのみならず、もう一度エルサレムでの同胞への伝道にチャレンジしたいと考えていたからである。ユダヤ人にイエスの救いを理解して欲しい、これはパウロの偽らざる気持ちであった。
しかし、エルサレムでは、彼を殺そうとする者が大勢待ちかまえていた。だからツロの弟子たちは、パウロがエルサレムに上らぬように、としきりに忠告している。それは聖霊に示されたことでもあった。また、カイザリヤに到着した時も、預言者アガボによって、パウロは、捕らえられることが、聖霊によって示されている。そしてカイザリヤの弟子たちも、しきりにエルサレムに上らぬようにと頼んでいる(12節)。それでもパウロは、エルサレムに上った。そして起こるべきことが起こった(27節)。
確かに聖霊は警告したが、パウロは、聖霊に逆らったわけではない。20:22では、聖霊に心を縛られて、とある。聖霊は反対したのではなく、エルサレム行きを促していた。だから、ここでの警告は、パウロに対する者ではなく、パウロと共にある者に対する祈りの要請を喚起するものである。パウロに反対したわけではない。そこで、考えなければならないのは、人に困難が生じるのは、必ずしも、その人の歩みを否定するものではない。人生の歩みに困難はつきもので、困難が生じるたびに、みこころを疑っていたら何も進めない。実際、パウロはこの後、エルサレムで逮捕されはするが、また釈放されている。パウロが斬首されるのは、このエルサレム行きによるものではなかった。実際パウロは、思いつきでエルサレムを目指したわけではない。単に内的な情熱を燃やしていたわけでもない。コリントの教会からの献金を届ける責任を合わせて持っていた(1コリント16:3)。そうしなければならない、必然的な理由があったのである。
ところで、エルサレムの兄弟たちは、パウロに対するあらぬ噂を知っていて、パウロにトラブルが起こらぬように配慮を示している。彼らは、誓願を立てている四人が、身を清め、頭をそる費用を出すように序言をしているのである。そしてパウロはこれに素直に従った。批評的な学者たちによれば、この箇所は、ルカがユダヤ教の律法に忠実であるパウロを印象づけるために創作したとされる部分である。しかし、パウロはユダヤ人のようにはユダヤ人のように、とユダヤ人の文化を尊重しただけと思われる。また、ユダヤ人におもねってそうしたのではなく、むしろ、進んで律法の下にある者として、ユダヤ人の救いを願うところもあったのだろう。
ただ、トラブルは、思いがけない所から生じた。まさに、キリスト者ユダヤ人に対する配慮を考えたこの行為が、アジヤから来たユダヤ人の目に留まり、パウロを訴えたのである。問題を解決しようとして取った行動が、確かにその問題を解決すると思われるものであっても、それが同時に新たな火種となることがある。人間的な知恵の限界を感じるところである。ともあれ、パウロは、二人の兵士によって手かせをはめられ、アガボの預言もこうして成就したのである。
パウロは誤解を受けた。それが、誇張し、過剰反応となり、さらには、パウロは刺客を引き連れて逃げ込んだエジプト人ではないか(38節)と目一杯誤解されている。誤解に歯止めはきかない。どのように対処すべきなのか。だいたいは、消耗するような関係に巻き込まれていくものである。大切なのは、そこで神にゆだねていくことであろう。
パウロは苦々しい思いに沈潜して、心を閉ざしたり、相手に仕返しをしようと機を狙ったりすることはしなかった。むしろ、誤解を解くための、積極的な手順を踏んだ。また、誤解を聞かされたことについて、感情を露わにして否定するのではなく、むしろ素直にアドバイスに従っている。その結果が思わしくない事態になり始めても、パウロは、静かに神が弁明を与えられる機会を待った。また、弁明される機会にあって彼は冷静に対処した。攻撃する相手から逃げようとはせずに、しっかり向かい合った。それはパウロに、聖霊が導いておられる、という初めの確信に立っていたからできたことなのだろう。パウロは、聖霊の導きに自分の死すらかけていた。36節「彼を除け」は、まさに十字架のイエス(ルカ23:18)に死を要求した群衆の声である。イエスの足跡に従った、イエスの弟子としてのパウロの姿がある。私たちもまた苦難のしもべの弟子であり、苦難をしばしの霊的な訓練として上手に受け止める者であろう。

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